三重県の徐福伝説

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三重県の徐福伝説

 三重県熊野市波田須(はたす)は,もとは「秦住」と書かれており徐福の上陸地点であり,徐福が住み着いた場所でもあります。日本での徐福やその子孫は「徐」の姓を使わず,故国の「秦」から波田,波多,羽田,畑など「ハタ」と読む漢字をあてて名乗っていたと伝えられています。

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熊野古道波田須と徐福宮

熊野古道波田須案内板熊野古道波田須案内板 熊野古道波田須案内板には西国三十三ヶ所名所図会の「新宮湊」(江戸時代)が描かれ,孝霊天皇72年に徐福が来たことが記されています。
熊野古道は熊野信仰で知られた参詣道で,2004年に,「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界遺産に登録されました。
日本各地の徐福伝承地の中にはこの熊野信仰との関わりがある場所があります。青森県小泊にある尾崎神社は飛龍大権現を祭神とし,その神社がある権現崎には熊野神社が鎮座しています。また佐賀県の古湯温泉は徐福が発見したと伝えられていますが,その温泉を見下ろす彦山権現山には徐福像が祀られています。熊野縁起では中国から飛来した熊野権現が最初に降臨したのが九州福岡と大分県境にある標高約1200mの英彦山(ひこやま)だとされています。(「英彦山」は「彦山」と表記されていた。)

熊野本宮大社熊野本宮大社 紀伊半島南部には熊野本宮大社,熊野速玉大社,熊野那智大社の熊野三山があります。
熊野三山には熊野権現(ごんげん)が祀られていますが,権現とはもともと日本にいる神をさしています。これは日本の神々は仏の仮の姿であるという本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想にもとづいたものです。(鎌倉時代には,仏こそが神の仮の姿であるとする「反本地垂迹」という思想も生まれます。) 三山の主祭神と仏教との対応では以下のようになっています。(実際は三山それぞれに,主祭神の三柱とも祀っています。)
熊野本宮大社(主祭神:家都御子神(けつみこのかみ)←阿弥陀如来
新宮熊野速玉大社(主祭神:熊野速玉男神(くまのはやたまおのかみ)←薬師如来
熊野那智大社(主祭神:熊野牟須美神(くまのむすみのかみ)←千手観音
地図

熊野本宮大社熊野本宮大社 本宮が熊野三山の中心として鎮座しています。神門をくぐると3棟で4つの神殿が見えます。
・第一殿「西御前(にしのごぜん)」-熊野牟須美神(くまのむすみのかみ)事解之男神(ことさかのおのかみ)
・第二殿「中御前(なかのごぜん)」-御子速玉之神(みこはやたまのかみ)伊弉諾尊(いざなぎのみこと)」
・第三殿本社「証誠殿(しょうじょうでん)」-家都美御子大神(けつみみこのおおかみ
  家都御子大神ともいう 熊野坐神(くまのにいますかみ)と呼ばれていました。
・第四殿「若宮(わかみや)」-天照大神
                               *本殿撮影及び掲載の許可済

那智大社那智大社 那智大社(熊野牟須美神(くまのむすみのかみ) 熊野夫須美大神:伊奘冉尊)(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)
地図

那智大社那智大社 神武天皇が熊野灘から那智の海岸に上陸したとき光り輝く山の方へ入っていくと大滝があったとされます。大滝は以前よりこの地の住民の信仰の対象となっていました。神武天皇は八咫烏(やたがらす)の導きによって大和へ戻ったと社伝にあります。この大滝を神とし,「大国主命(おおくにぬしのみこと)」を祀り,また,親神さまの「夫須美神」(伊弉冉尊:いざなみのみこと)を祀りました。

速玉大社速玉大社 速玉大社(熊野速玉大神(いざなぎのみこと) 熊野夫須美 
約2000年ほど前の景行天皇の時代,神倉山から現在の地に遷りました。熊野速玉大神・熊野夫須美大神を主神とし,12の神々を祀っています。(和歌山県新宮市)
地図

速玉大社速玉大社 平安時代から鎌倉時代,皇族や貴族たちは山岳信仰に救いを求め,「熊野御幸」をおこなうようになりました。やがて熊野信仰は武士や庶民へも広がっていきます。

熊野古道熊野古道 紀伊半島南部には熊野古道と呼ばれる熊野信仰の道が整備されて残っています。熊野古道は,伊勢・吉野・京都などから熊野三山に参るための道で,紀伊半島西回りの「紀伊路」(平安時代から鎌倉時代が中心)と東回りの「伊勢路」(江戸時代以降)に代表されるコースが何本もあります。熊野古道 三重県紀伊長島町

「蟻の熊野詣」「蟻の熊野詣」 紀伊半島南部は山が海岸線に迫り険しい山道が続きます。いくつもの峠越えが続く熊野詣はまさに苦行で,道が崩れたり土砂が流出しないようにと石が敷かれた狭い山道を一列になって歩きました。それがアリの行列にたとえられ,「蟻の熊野詣」などと呼ばれていました。

熊野古道熊野古道 三重県熊野市波田須にも熊野古道が残っています。鎌倉時代の道とされ,苔むした石畳が静かに旅人を待っています。

波田須波田須 三重県熊野市波田須(はたす)は,もとは「秦住」と書かれており徐福の上陸地点であり,徐福が住み着いた場所でもあります。日本での徐福やその子孫は「徐」の姓を使わず,故国の「秦」から波田,波多,羽田,畑など「ハタ」と読む漢字をあてて名乗っていたようです。

波田須の海波田須の海 波田須神社から見た入り江。大船団で船出した徐福は嵐にあい三重県熊野市の波田須(はたす)・矢賀(やいか)の磯に流れ着きます。当時ここには3軒しか家がなかったそうです。
 紀州熊野に永住することを決めた徐福はこの3軒に焼き物の製法を教えました。今も「釜所」という地名が残っています。 また,製鉄などの技術や農耕・土木・捕鯨・医薬なども伝えたとされまする。徐福が残したと伝えられる御神宝の「摺鉢」や,秦代の古銭「半両銭」などが出土し保管されています。

徐福宮徐福宮 徐福が伝えたものの中に製紙があります。「徐福紙」とよばれている紙は,日本古来から伝わるものと異なり,唐様の紙だと言われています。この紙の製法を村人に伝え,現在でも「那智紙」「音無紙」として知られているそうです。
(三重県熊野市波田須徐福宮野市波多須)
地図

徐福宮徐福宮 国道から海岸の方を見ると,村の中に丸みを帯びた丘が確認できます。これが矢賀の蓬莱山とよばれた丸山です。丸山に徐福宮があります。徐福宮の祠の背部に徐福の墓の石碑が立っています。徐福はここで亡くなったのでしょうか。

徐福之墓徐福之墓 石碑には確かに「徐福之墓」と記されています。しかし,山梨県にも徐福に関する伝承があることから,徐福らは再び船出し,黒潮に乗って北上したと推測します。

鳥羽展望台より伊勢湾鳥羽展望台より伊勢湾 志摩半島先端を黒潮に乗って船が進みます。大王崎を過ぎ,伊勢沖を航行する徐福らの乗った船は蓬莱の地が持つ力に導かれ,伊良湖水道から伊勢湾の奥へと入っていきました。やがて,目の前に愛知県の地名の元になった「年魚市潟(あゆちがた)」(現在の愛知県名古屋市熱田区)にたどり着きます。