和歌山県の徐福伝説

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和歌山県の徐福伝説

 和歌山県南部に位置する新宮市は太平洋側に面し,黒潮の流れが当たる温暖な地です。熊野川の河口近くにある蓬莱山は半球の美しい形をしており,これを見た徐福たちはこの地に上陸することを決めました。
 徐福は今から2200年ほど前,秦の始皇帝の命令で東方海上にあるという三神山に不老不死の仙薬を探すために船出しました。そして,何日もの航海の末,たどり着いたのが日本の熊野地方です。
 徐福はこの地で天台烏薬という木を発見しました。そして,温かな気候,美しい自然に囲まれ,この地に永住することを決心します。土地の人たちと田畑を開墾し,農業技術,漁法,捕鯨,製紙など多くの技術を伝えました。
 和歌山県新宮市には徐福の墓を含めた「徐福公園」があります。入り口の門は中国建築を思わせる楼門で大変きれいです。


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熊野川河口

熊野川
不老不死の薬を求めて蓬莱山をめざした徐福は,熊野川河口にまるでお碗をふせたような形の山を見つけました。これこそ神々が降臨するとされる蓬莱山だと思ったのです。熊野川は紀伊山地を源に,全長160㎞の1級河川で,新宮川という別名もある川です。

蓬莱山

蓬莱山北面(熊野川)
この小山は徐福の伝承が元になって蓬莱山(南北約100m,東西約50m,標高約50m)と名付けられ,現在もそう呼ばれています。この山は古より信仰の対象となる霊山でした。山の北側は熊野川に面しています。地図

蓬莱山

蓬莱山南面(阿須賀神社) 
蓬莱山の南側からは竪穴式住居跡や弥生式土器などが出土することから,この地一帯には弥生時代より集落があったことがわかります。

阿須賀(あすか)神社

阿須賀神社
弥生時代の集落遺跡が発見された場所と隣接して,蓬莱山を背に阿須賀(あすか)神社が鎮座しています。地図

徐福上陸図

徐福渡来の画 (西国三十三カ所名所図絵ー新宮湊)
 徐福公園にある石碑(由緒板)より
平成6年,徐福公園が完成したことを記念して,中国山東省龍口市から寄贈された横3.2m,縦1.6mの大理石の板です。 
熊野川河口近くを航行していた徐福たちは蓬莱山を見つけてこの地に上陸することを決めました。

上陸記念碑
上陸記念碑

徐福上陸記念碑
 平成9年,徐福が上陸したとされる場所に記念碑が建てられました。蓬莱山・阿須賀神社から南東に100mの熊野川河口にあり,目の前は熊野灘であり太平洋です。地図

和歌山県新宮市徐福公園
和歌山県新宮市徐福公園

徐福公園
平成6年,徐福の墓を中心として整備され「徐福公園」としてオープンしました。中国式の楼門がシンボルです。(和歌山県新宮市)地図

徐福像

徐福像(徐福公園) 
上陸した徐福は現在徐福公園として整備されている場所に居を構えました。

徐福像
徐福像

徐福像
徐福公園の中心部には徐福の石像が立っています。高さ1.9m,御影石に彫られた徐福はたいへん温かい表情をしています。

徐福の墓

 徐福の墓(徐福公園) 
 徐福公園の中にあります。
 熊野の伝説では徐福はこの地で亡くなったとされています。新宮市と交流のある中国でもここに徐福の墓があることが定説となっているようです。

徐福の墓

徐福の墓 石碑
墓碑の高さは1.4m,幅0.5mで自然石を使っています。1736年,紀州藩祖徳川頼宣が領地を見回っている際,徐福宮のことを知り,徐福の墓を建立しました。墓碑には儒臣の李梅溪が書いた字「秦徐福之墓」が刻まれています。

徐福の墓の場所に関しては諸説あります。
①徐福公園のある場所が徐福の墓
②徐福公園は徐福の住居跡であって,徐福の墓は阿須賀神社境内にある古い石碑
③三重県の波田須にある徐福宮が徐福の墓
山梨県富士吉田市には『富士古文書』があり,これによれば,徐福は富士山麓で没したとされています。徐福の墓は山梨県に存在することになります。

天台烏薬徐福茶

天台烏薬(徐福公園)
 徐福が探し求めた不老不死の薬とは,紀伊半島に自生するクスノキ科の常緑樹で「天台烏薬」(てんだいうやく)であると言われています。
 この根は腎臓・胃・リウマチなどの薬となり,また体内で増えすぎた活性酸素を消す働きもあることがわかっています。
 徐福公園内にある売店には徐福茶が置かれています。これは天台烏薬の葉と熊野番茶をブレンドした健康茶として販売されています。

七塚の碑

七塚の碑(徐福公園)
 徐福の墓の横には,徐福の重臣7人を祀った石碑も立っています。
 7人の墓はもとは円墳で,蓬莱山を中心として北斗七星の形を表して造られていたらしいです。昔,この墓を掘り返したことがあったようで,中から刀や陶磁器が発見されたそうです。しかし,掘った者が病になったため埋め戻したそうです。明治時代にはこれらの墓が存在してたようですが現在は不明です。そのため,大正時代に徐福公園内に合祀されました。(大正4年建立) 高さ1.01m,幅0.48mの自然石で作られています。

不老の池

不老の池
徐福像の右に不老の池があります。徐福が最も信頼する重臣の7人はそれぞれに徳を持っていました。この池には重臣達の「和」「仁」「慈」「勇」「財」「調」「壮」の7つの徳が刻まれた石柱が北斗七星の形に配して立っています。池の背面には7本の天台烏薬の木が植えられています。

徐福顕彰碑

徐福顕彰碑(徐福公園)
 これは昭和15年に建てられた石碑で,徐福の墓に向かって左にあります。この徐福顕彰碑はもとは1834年に造られましたが,海上輸送の最中に嵐のため海に沈んでしまったので復元建立したとあります。

秦の徐福の碑 意訳 (案内板全文)
後の人か昔のことを思い見るのは,丁度月夜に遠方を望みみるようなものである。そこに何かがlあることはわかっていてもその形がはっきりしない。形がはっきりしなくてもそこに何かがあることは事実である。徐福が熊野に来たということも,それと同じで,詳細はわからないが,来たことは確かである。
 中国の秦の歴史にこう書いてある。「斉の国の人,徐市らが秦の始皇帝に「海の向こうに蓮菜,方文,えい洲という仙人の住む三つの島があります。そこに行って,不老不死の薬を探し求めて参りましょうか。」と申し上げたとこう,皇帝は喜んで徐市に船を与え,子供を大勢つれさせその仙薬を探しに行かせたというのである。この徐市とは徐福のことである。その他の多くの中国の史書にも大体同じようなことが書かれている。仙人の島であるという中国東方の海上といえば,日本以外にはない。
 日本でも古来,蓬莱といっている所は,富士山,熊野,熱田などがある。地形から考えると熊野は日本本州の南端に突き出ている。風と海流によって中国の船が熊野浦によく漂着することから思うと,蓬莱とは熊野に違いない。熊野の新宮の地には徐福の詞,徐福の墓,その墓の側に七塚がある。七塚は徐福の一番信頼していた家来の墓だという。或いは徐福がその故国から持って来た物を埋めているのだともいう。
 昔,ある人が七塚を掘り返したところ,日本のものではないような数個の器物が出てきたので珍しがってそれを自分のものにした。するとその家族が急に気が変になったので恐ろしくなり,その器物を皆もとのところに埋めたということである。
 日本の書物を調べてみると長寛勘文には「大昔大台山から来朝した王子信の旧蹟がある」と記し,また「漢の将軍の嫡子直俊が熊野権現の榎の下に移し迎えた」とも記し,また,「第五代孝昭天皇の時代に南蛮江の斉王が船で来る途中暴風雨にあって船がこわれ,やっと七人だけが助かった。その中の三人は船を作って本回へ帰ったが,四人は留まって神につかえ,魚を釣って来ては熊野権現に供えた。その子孫はとうとう新宮に住み着いて繁昌した。」とも書いてある。
 これらの話はそれぞれ違っているが,外国人が来朝したしたという点だけは一致している。思うには徐福が秦の国を去ったのは,わが国の第七代孝霊天皇の時に当たる。中国,日本両国の史伝ではその渡来の年代や人数に多少のくいちがいがあるが,大昔のことはすべてぼうとしていて誰にもその詳しいことはわからない。月夜に遠方を望むことはこのことだ。
 当時,日本にはまだ文字がなかった。漢字が伝わり,文字がかけるようになったころには,古代のことははっきりわからなくなっていた。書物によって名前が合わなくてもそれらは,皆徐福をさしているのである。徐福の子孫は平和を愛した祖先の理想こ生き,神につかえて繁栄した。二千百余年後の今日まで世は移り変ったが,墓を守り祖先を祭りつづけて来たのは,まことに立派である。ああ,徐福は泰の国政が乱れ,人民がしいたげられた時,その魔手を逃れるため道教を研究し仙術を修行する方士となり,それでも身辺の危険を感ずると「東海に仙人の住む三つの島がある」と進言し,平和な楽しい国に行こうと謀った。彼は早くから東方君子国の存在を知っていたのである。孔子は「道理の行われない嫌な世には筏に乗って海外に行こう」と言ったが,徐福は孔子の気持ちを実行したのである。
 中国の戦国時代に魯中連という人は「泰がもし天下の政権を握るようなことがあったらすぐ私は東海に身をなげて死ぬ。私はどうしても秦の民となることはできぬ。」とはげしい口調で言った。他人は魯中連の精神に感動し,その言葉を小気味よいと思った。しかし,彼はただこう言っただけで実行しなっかった。この魯中連を,泰から遠く清らかな世界に逃げ去ることを実行した徐福に比べると月とすっぽんほど違う。
 泰朝幾億万の人間の中に一人として徐福以上の高潔な精神をもち偉大な実行をした人はない。後世の愚かな歴史家達はこの点を理解できず,徐福を単なるほらふきの方士に過ぎぬと悪口をいうのは残念である。江戸時代,桜町天皇の元文元年(一七三六),新宮城主水野忠昭が墓を立てさせたが,表彰する碑文がなかった。それから百年後の今年,仁孝天皇の天保五年私が薄命を受けて熊野を巡り徐福の故事をさぐった。はっきり残っているこの遺蹟を世に広く知らさねばならぬと思ってこの碑文を作ったしだいである。
 ああ,広い世界に多くの国々が対立している。幾千年の後にまた蓬莱の島をたずねてくる人かあったら,ここに来て,この碑文を読んでください。
 秦の王様,乱暴で人民どもを苦しめる。蝉や小鳥は飛んで逃げ哲人徐福は船出する。
楽しい国よこの熊野,ここが本当の蓬莱だ。人の情も温かく子孫代々栄え行く。
徐福の墓はいつきても花や線香絶えやせぬ。遠い異国の人も来て見よ,美しい山や河

阿須賀神社1
阿須賀神社2
阿須賀神社3
阿須賀神社4

阿須賀神社 
 阿須賀神社境内地から弥生時代の竪穴式住居跡が発見され,多くの土器も出土しました。徐福のいた時代にこの場所で人々が生活をしていたことを物語っています。
 ここは熊野速玉大社とも関わり,主祭神として事解男之命(ことさかのおのみこと),他に家都御子大神・熊野速玉大神・熊野夫須美大神祭神を祀っています。地図

徐福宮

徐福宮(阿須賀神社境内地)
徐福の墓は阿須賀神社の西方に祀られている古い石で,昔から御陵と呼ばれている所だとも言われています。この石は阿須賀神社本殿の横にある子安石とよばれている石ではないかとも言われています。


徐福宮

徐福宮
速玉大社神宝館には江戸時代に描かれた「紙本著色新宮本社附新宮末社図」が保管されています。その絵の中に「徐福宮」が描かれていました。このことから阿須賀神社境内には古くから「徐福宮」が祀られていたことがわかります。また,「熊野年代記」などの古い記録の中にも「秦徐福の石塔楠藪に建つ」と書かれています。高さ2.35m,幅0.62m

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速玉(はやたま)大社の人物図
紀伊半島南部には熊野三山があります。その一つの速玉大社には「木板浮雕人物図」が保存されています。この図はもともと速玉大社の西方にある神倉山山頂の徐福祠にありました。しかし,この祠は火災で焼失してしまいました。そのときこの図は難を逃れ速玉大社に保存されることになったそうです。この図に描かれている人物が徐福ではないかと言われています。この人物像の周りに描かれているのはボタンの花で,原産地は中国山東省,徐福の出身地です。(参考 『太古のロマン 徐福伝説』編集発行佐賀市 )


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熊野速玉大社 新宮十二社大権現
もとは神倉山にありましたが,約2000年ほど前の景行天皇の時代に現在地に遷りました。神倉神社を「旧宮」とし,速玉大社を「新宮」と号したそうです。御祭神は熊野速玉大神で「いざなぎのみこと」,熊野夫須美大神「いざなみのみこと」を主神として,十二柱の神々が祀られています。
徐福神輿,徐福灯籠,徐福の馬のくらなど徐福と関係のあるものが保存されています。
和歌山県新宮市新宮1地図

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