伝説の扉 http://www.densetsu-tobira.com

静岡県の徐福伝説

  「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と歌われた静岡県島田市の大井川下流に徐福伝説があります。明治以前、大井川は橋のない川で、川を渡るためには川越人足という人たちによって渡してもらっていました。大井川の左岸、川越遺跡とよぶ江戸時代の施設が復元されています。明治になると大井川に橋が架けられました。木造の長い橋は「蓬莱橋(ほうらいばし)」といい、復元された橋は世界最長の木造橋としてギネスに登録されています。徐福伝説はこの橋を渡った対岸の高台にあります。

島田宿川越遺跡(静岡県島田市河原)-007.JPG

蓬莱橋蓬莱橋(静岡県島田市南町地先)地図
蓬莱橋は長い木の橋=長生きの橋であり、全長897.4m(やくなし:厄無し)、長寿を願う意味が込められています。徐福の蓬莱伝承に因みこの名が付けられたようです。橋は牧ノ原の茶畑と対岸の宝来地区を結ぶために明治時代に造られましたが、改修されたり、橋脚をコンクリートにしたりして現在も利用されています。
 橋を中程まで歩くと雄大な富士山を眺めることが出来ます。

蓬莱の島台蓬莱の島台(静岡県島田市阪本) 蓬莱の島台(静岡県島田市阪本) 地図
 蓬莱橋を渡った左に「蓬莱の島台」という高台があります。ここには徐福のお立ち台としての伝承があります。河口からは10㎞以上離れていますが、古代は近くに海岸線があったのではないかと推測されます。徐福一行がこの辺りで不老不死の薬を探していたことが案内板に書かれていますが、愛知県東部を船出した一行が次にたどり着いたのがここで、着岸して休んだとも考えられます。この高台からは富士山がきれいに見えます。蓬莱山=富士山を見た一行は、この地から再び船出し、富士山を目指したのではないでしょうか。

島台付近の石像と案内板島台付近の石像と案内板

 「蓬莱の島台」付近にはたくさんの石像と長寿の鐘があります。
「蓬莱に不死の仙薬無けれども 長生き橋にあやかりて長寿祈願の鐘一つ打つ」

「蓬莱」「蓬莱」

以下、蓬莱について案内板に書かれていました

「蓬莱」について
「蓬」 ホウと読みますが「よもぎ」のことです。
一年草で全国どこにでもある山野草です。葉は食用(薬用)になる。毛は火打ち用もぐさ

「莱」 ライと読みますが「藜あかざ」のことです。
中国原産の山野草で古支那では茎は老人の安全棒(杖)とした。葉は食用(薬用)になる

茶畑茶畑
 島台から延びる七福神の小径を抜けると牧ノ原台地の広大な茶畑に出ます。茶畑に立つ中條金之助景昭(ちゅうじょう きんのすけかげあき)像から敬満神を祭神とする敬満神社(けんまんじんじゃ)を経由して古墳時代後期に築造され、谷口原古墳群では最大規模の前方後円墳である愛宕塚(あたごづか)古墳までのウォーキングコースがあります。

蓬莱橋蓬莱橋
 島台からは世界一長い木造歩道橋(橋脚はコンクリート)でギネスにも認定されている蓬莱橋の全体が眼下に見えます。

中條金之助景昭像中條金之助景昭像
 中條金之助景昭(ちゅうじょう きんのすけかげあき)は幕末から明治にかけて活躍した人です。明治政府の対外政策により牧之原を開墾し茶の生産を成功させました。その功を称え、建立されました。

敬満神社敬満神社(島田市阪本4054-1)地図
 敬満神社は社伝では垂仁天皇26年(BC4年)の創建と伝えられています。祭神は「敬満神」 (きょうまんのかみ)ですが、秦氏の祖でもある功満王(こうまんおう)のことではないかと推測します。功満王は秦始皇帝の子孫で、応神天皇14年 西暦283年(別説 仲哀天皇8年 西暦199年『新撰姓氏録』 こちらが正しいとすると子の来日年との差が大きくなる)に朝鮮半島からやってきたとされる渡来人です。その子の弓月君(ゆづきのきみ:融通王)も応神天皇14年(『日本書紀』)に朝鮮半島から渡来し、帰化しました。秦氏の祖は弓月君とされているようですが、実際は先に父の功満王が渡来し、帰化人をまとめていたのではないかとも考えられます。秦氏の祖と同行した帰化人たちは大陸の文化や養蚕・絹織物などの生産技術を日本に伝えました。彼らは日本で「波多」や「秦」姓を名乗っています。

愛宕塚(あたごづか)古墳(島田市阪本4395)愛宕塚(あたごづか)古墳(島田市阪本4395)
 島台の案内にあるように、徐福が来たのは縄文時代後期と言われています。徐福と行動を共にしていた人たちの中には、ここに住み着いた人たちがいたのかもしれません。その後の渡来人たちもこの地を訪ね土着の民となっていったのかもしれません。

蓬莱橋から見る富士山蓬莱橋から見る富士山
 徐福たちは富士山を見て あれこそ「蓬莱山」と思ったことでしょう。

ページの先頭へ