日本武尊 of 伝説の扉日本武尊


倭建命
全面改定しました

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以下はこれまで公開していたものに加筆しました
『古事記』に従って作成しました
日本神話の英雄ヤマトタケルには「日本武尊」(日本書紀)「倭建命」(古事記)の二つの漢字表記がある。
ここでは「ヤマトタケル」と表記した



ヤマトタケルは三重県の能褒野で亡くなると白鳥の姿になって飛び立っていったので
ヤマトタケル伝説は白鳥伝説とも呼ばれている

倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山こもれる 倭しうるわし

ヤマトタケル像
(滋賀県坂田郡米原町醒ヶ井)

 ヤマトタケルは第12代景行天皇の子として誕生した。幼名を小碓命(おうすのみこと)といい,兄の大碓命(おおうすのみこと)とは双子の兄弟とも言われている。武勇に秀でていたが気性が激しく,兄を殺害してしまったため父からは疎(うと)んじられていた。
 ある日,景行天皇の宮(日代宮:ひしろのみや-奈良県桜井市穴師)に呼ばれた大碓命は父から美濃の国にいる兄比売(えひめ)と弟比売(おとひめ)の姉妹を召しつれてくるように言われる。兵を連れて美濃に出かけた大碓命は,二人があまりに美しい娘たちだったので自分の下に置くことと決め,父の前には別の娘を差し出してごまかすことにした。しかし,このことが父に知られることとなり,大碓命は父の前に顔を出しづらくなってしまう。そのため朝夕の食事にも同席せず,大事な儀式に出ないことで父を怒らせてしまった。そこで,父は弟の小碓命(ヤマトタケル)に食事の席に出るように諭してくるように命じた。小碓命は早々に兄に会い,教え諭した。しかし,それでも大碓命が顔を出さないので,父が小碓命にどのように諭したのかをたずねたところ,「朝,兄が厠(かわや:便所)に入ったとき,手足をもぎ取り,体を薦(こも:=「菰」 わらを編んで作ったむしろ)に包んで投げ捨てました。」と答えた。










景行天皇陵(渋谷向山古墳)奈良県天理市渋谷町


 小碓命が16才のとき,父景行天皇は九州の熊襲(くまそ)を平定するように命じた。熊襲建(たける)兄弟は武勇に秀でていたが,大王の命に従わおうとしないので,征伐することになった。九州の熊襲建は大きな家を新築したばかりで,そこでは祝いの宴が催されていた。小碓命は少女のように髪を結い,叔母(倭比売)からもらった小袖を着て宴に紛れ込んだ。酒を飲んで上機嫌になっている兄弟を見ると,その前に進み出て目にとまるような仕草をした。色白で美しい小碓命に熊襲建の兄が声をかけてそばに座らせた。そして,兄が小碓命を自分の膝の上に抱きかかえようとしたとき,小碓命はここぞどかりに持っていた短刀で兄を一気に斬り殺してしまった。それを見て外に走って出ようとした
熊襲建の弟を追い,背中から刀をさしたところ,弟は自分たち兄弟より強い者は西方にはいないが倭にはいたんだと知り,自分たちの「建」の名をもらってほしいと願う。そして,小碓命を倭建命(やまとたけるのみこと)と称えることにすると言って息をひきとった。小碓命はこれより倭建命(ヤマトタケル)と名乗ることにした。(「建」は勇敢な者という意味を持つ)
 大和にある宮に戻る途中も,山の神,川の神,河口の神などの大王に従わない者たちを征伐した。出雲の国の出雲建(いずもたける)を征伐するときも頭を使って勝利し,国を平定した。




加佐登神社拝殿の絵馬(三重県鈴鹿市加佐登町)
加佐登神社許可

 
熱田神宮(愛知県名古屋市)は
草薙の剣をご神体としている
 大和の宮に戻ったヤマトタケルは羽曳野で一人の娘と出会った。名は弟橘比売(おとたちばなひめ)。やがて二人は結ばれた。
 ヤマトタケルは休む間もなく次は東国の平定へと向かわねばならなかった。父は,東国の12か国(伊勢:いせ,尾張:おわり,三河:みかわ,遠江:とおとうみ,駿河:するが,甲斐:かい,伊豆:いず,相模:さがみ,武蔵:むさし,総:ふさ,常陸:ひたち,陸奥:みちのく)が従わないので平定するようヤマトタケルに命じたのだった。
 出発前,ヤマトタケルは伊勢にいる叔母の倭比売(やまとひめ:景行天皇の同母妹)から,須佐之男命(すさのおのみこと)が出雲で倒したヤマタノオロチの尾から出てきたとされ,天照大神(あまてらすおおみかみ)に献上した天叢雲(あめのむらくも)の剣を受け取った。
 尾張に入ると豪族の娘の美夜受比売(みやずひめ)と出会い,東国の平定後に結婚すると約束した。

 美夜受比売の兄の建稲種命(たけいなだねのみこと)は尾張の水軍を率いており,副将軍として東国の平定に出かけることとなった。

断夫山古墳(名古屋市熱田区)は尾張氏の墓
                           

    萱津神社(海部郡甚目寺町上萱津)       
 ヤマトタケルは東征の途中,尾張の萱津(かやつ)神社に立ち寄っている。村人たちが塩漬けの野菜の漬け物を献上すると「藪二神物(やぶにこうのもの)」と言われ,漬け物のことを「香の物」ともよぶようにもなった。萱津神社は,「草ノ社(かやのやしろ)」,「種の社(くさのやしろ)」,「阿波手の社(あわでのやしろ)」ともよばれていた。御祭神は鹿屋野比売神(かやぬひめのかみ)で漬け物の祖神である。
 相模の国に入る前で弟橘比売(おとたちばなひめ)が合流した。
 土地の役人がヤマトタケルを迎え,草原の神が従わないから成敗してほしいと,沼に案内した。しかし,それは罠であった。いつの間にか草原に火がつけられ炎に囲まれてしまった。弟橘比売とともに焼かれてしまうところだったが,持っていた天叢雲(あめのむらくも)の剣でまわりの草を刈り,叔母にもらって持っていた火打ち石で向かい火をたいて火の向きを変えた。このとき風向きも味方した。ヤマトタケルは罠に陥れようとした者たちを斬り殺して焼いた。この地が静岡県の静岡市(旧清水市か焼津市)ではないかと言われている。

日本平にあるヤマトタケルの像

静岡県静岡市(旧清水市)にある草薙神社
 天叢雲(あめのむらくも)の剣によって難を逃れたヤマトタケルはこの剣を「草薙(くさなぎ)の剣」と改名した。「草薙の剣」は三種の神器の一つであり,名古屋市の熱田神宮に祀られている。静岡県静岡市(旧清水市)にある草薙神社の由緒書きには「草薙の剣」が神剣として草薙神社に祀られているとある。
 この草原の名を「草薙」として現在も地名として残っている。
 また,ヤマトタケルは小高い丘に登り周りの平原を見渡した。この姿を見た土地の人たちがここを「日本平」と名付けた。
  ヤマトタケルたちは走水(はしりみず)の海から船出をした。たちまち嵐(あらし)が襲(おそ)った。黒い雲が巻き起こり波が船を襲った。雷鳴がとどろき、激しい雨と風に船はなすすべもありません。弟橘比売は「海神の祟(たた)り」だと言い、「その怒りを静めましょう」と海に身を投げた。

 入水の際に媛は火攻めに遭った時のヤマトタケルの優しさを回想する歌を詠んだ。

「佐泥佐斯 佐賀牟能袁怒邇 毛由流肥能 本那迦邇多知弖 斗比斯岐美波母」
(さねさし相模の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて問ひし君はも)
相模野の燃える火の中で、私を気遣って声をかけて下さったあなたよ……

 走水神社(神奈川県横須賀市走水)
 
八剣八幡神社(千葉県木更津市)
 やがて海は静まり,ヤマトタケルたちは上総(かずさ:千葉県)に渡ることができた。海岸でヤマトタケルはクシを見つけた。それが弟橘比売のものとわかると悲しみがこみ上げてきた。

 このあと荒ぶる蝦夷たちを平定し、ヤマトタケルたちは帰途についた。
白鳥神社(千葉県君津市鹿野山) 
 
足柄峠(神奈川県南足柄市)
 ヤマトタケルは、足柄の坂本(神奈川・静岡県境)で食事をしているとき、坂の神が白鹿となって現れた。そこで蒜(ひる=野生の葱・韮)で打ち殺した。
 東国を平定して、四阿嶺に立ち、そこから東国を望んで弟橘比売を思い出し、「吾妻はや」(わが妻よ……)と嘆いた。それがもとでここから東の国を「あづま」(東・吾妻)と呼ぶようになった。   
碓氷峠 熊野神社
 
酒折宮(山梨県甲府市酒折)
 甲斐国に至り、酒折宮にいるときヤマトタケルは 「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」 と歌を詠んだ。
 するとこれにこたえてかがりびをたく老人が 「日々並べて(かがなべて) 夜には九夜 日には十日を」 と歌った。この者をほめて東の国造に任じた。
 *これは連歌の発祥とされる話  
 甲斐,信濃長野,美濃大井,釜戸,池田から尾張に入った。  
神坂神社(長野県下伊那郡阿智村)

内々神社本殿と庭園
奥の院 (右下)(愛知県春日井市)
祭神は建稲種命(たけいなだねのみこと)
 ヤマトタケルは早馬で駆けてきた従者の久米八腹(くめのやはら)から,甲斐での戦いの後,東海道を通っていたはずの建稲種命(たけいなたのみこと)が駿河の海で水死したことを聞いた。

 ヤマトタケルは「ああ現哉(うつつがな)々々」と嘆き悲しみ建稲種命の霊を祭った。これが内々(うつつ)神社の始まりで,実際に祭った場所は奥の院であったとされている。(春日井市教育委員会案内板より)

 西尾(ヤマトタケルが建稲種命の霊を祭った内々を振り返ったとき,馬の尾が西を向いたのでこの地名がついた)から熱田への帰路,ここ神屋で休んで手を洗った。以前は清水が1年中かれることなくこんこんとわき出ていたといわれ,小さな祠が建てられている。

 この後,ヤマトタケルは美夜受比売(みやずひめ)と再会した。

御手洗宮(みたらしぐう)

氷上姉子神社元宮 宮簀媛館跡





ヤマトタケル像(滋賀県米原市)
 尾張ではまだしなければならないことがあった。それは伊吹山の神を征伐することだった 。ヤマトタケルは素手で戦うからと草薙の剣を美夜受比売に預けて出かけることにした。伊吹山を登り始めてしばらくすると,白く大きなイノシシが現れた。山の神の使いが変身しているに違いないから大したことはないと先に進んでいった。ところがこのイノシシが山の神自身が変身していたのだった。山の神はヤマトタケルに大氷雨を降らせため,大きな痛手を被ってしまい,やがて病にかかり伊吹山を下りた。

 ヤマトタケルが攻撃されたのは伊吹山3合目付近であったらしい。西側登山道を登った3合目付近にヤマトタケル遭難碑があるが,山頂にはヤマトタケル像が建っている。

伊吹山(滋賀県・岐阜県)

伊吹山山頂(滋賀県)のヤマトタケル像
 
伊吹山3合目にあるヤマトタケル遭難碑
3合目の伊吹山高原へ行くにはゴンドラを利用する

伊吹山3合目
頂上までの登山道が続く

命水 ケカチの湧(ゆ)

居醒の清水-ヤマトタケルが飲んだ清水

鞍懸石-ヤマトタケルが鞍を置いた石

腰掛石-ヤマトタケルが腰をかけた
3枚とも滋賀県米原町醒ヶ井
 伊吹山を下り,毒気にあたって命からがらにこの泉にたどり着いたヤマトタケルは玉倉部の清水を飲んで体を休めた。ここの清水の効果は大きく,高熱がさめたという話が伝わっている。

 伊吹山ゴンドラ乗り場付近の命水ケカチの湧(ゆ)や滋賀県米原町醒ヶ井に「居醒の清水」があり,この伝説が残っている。
 昔,醒ヶ井は中山道を往来した人たちの休憩所でもあった。ヤマトタケルが傷をいやしたことから「居醒(いざめ)の清水」と呼ばれ,醒井(さめがい)という地名もこの話が元になったと言われている。
  伊吹山での戦いの後,疲れ果ててしまったヤマトタケルは岐阜県養老町あたりにたどり着いて休憩した。しかし,足はふくれあがり「私の足は歩くことも出来ず,たぎたぎしくなった」と言った。後にこの地を当芸野(たぎの)とよぶようになった。しばらく休んだ後,再び大和へ向かって歩き始めた。
当芸野の碑(岐阜県養老町 大菩薩寺前)

杖衝坂 
  (三重県四日市市采女町)
 鈴鹿の山を見ながら現在の三重県四日市市から鈴鹿市に入ったヤマトタケルであったが大変疲れていた。目の前の急坂を上るために,杖をつきながら歩いたという。そこでこの坂を杖衝坂(杖突坂:つえつきざか)といい,旧東海道に残っている。
 約200mほど坂を上ったところで足を見るとたくさんの血が出ていたのでここで洗った。
ヤマトタケル御血塚と祠
(三重県四日市市采女町)

平群神社(三重県桑名市志知3693)
 大和を目指して歩き続けるヤマトタケルであったが,体力は衰え,「わが足三重の匂(まか)りなして,いと疲れたり」と語った。このことからこの地を三重と呼んだ。


ヤマトタケル像
加佐登神社(三重県鈴鹿市加佐登町)
 

 やまとは 国のまほろば
 たたなづく 青垣  山ごもれる やまとし うるわし

 ヤマトタケルは終焉の地となる能褒野(能煩野:のぼの)に着く。そして,ここで力尽きた。
 その知らせは宮にいる妃たちにも届いた。そして,能褒野に陵を造った。みなが嘆き悲しんでいると陵から一羽の白鳥が空へ舞い上がり,大和の方へ飛んでいった。
 
 ヤマトタケルの陵とされる古墳の場所は諸説(「白鳥塚」鈴鹿市加佐登,「武備塚」鈴鹿市長沢「双児塚」鈴鹿市長沢,「王塚」鈴鹿市国府,「丁子塚」亀山市田村町)あって定かではないが,明治12年に内務省が亀山市の能褒野神社西にある丁字(ちょうじ)塚と呼ばれる前方後円墳をヤマトタケルの陵と指定した。
 三重県亀山市にある能褒野御墓は全長90m,後円部の直径54m,高さ9mで三重北部最大の前方後円墳である。能褒野神社にはヤマトタケル,弟橘姫命などが祀られている。
能褒野御墓・能褒野神社(三重県亀山市田村町)
 鈴鹿市加佐登町の加佐登神社はヤマトタケル,天照大御神を祭神とする。この地は景行天皇が行在所を置いた所であり,高宮の里ともよばれている。加佐登神社由来記によると,ここはもとは御笠殿(みかさどの)社といい,ヤマトタケルが最期まで持っていた笠と杖をご神体として祀ったとある。近くに奉冠塚,奉装塚があり,着物がおさめられたと言われている。神社の北には白鳥陵があり,ここにヤマトタケルが葬られたが白鳥となって飛んでいったという。古墳は東西78m,南北59m,高さ13mの三重県下最大の円墳であり,墳丘には葺き石が一部残っている。

白鳥陵
(三重県鈴鹿市加佐登町)

加佐登神社
(三重県鈴鹿市加佐登町)
能褒野より大和へ向かって一羽の白鳥が飛び立った。
この白鳥が最初に舞い降りたとする伝説地の一つが琴弾原(奈良県御所市)で,この地に白鳥陵がある。
 
白鳥陵(奈良県御所市)
再び白鳥は空へと舞い上がる。
 大阪府羽曳野市の白鳥陵

 白鳥は旧市邑(ふるいちむら)(羽曳野市)に降り立った。
                        白鳥陵(大阪府羽曳野市)
  
白鳥は再び空天高く飛び去っていったという。
      
白鳥のイメージとして,下記のホームページ掲載の白鷺の写真を作者の許可を得て使わせていただいた。 自作フリーウェア/シェアウェア・フリー写真集
古事記ではこの白鳥の大きさを八尋としている。一尋は両手を広げた長さで,その8倍ということは12m以上の鳥と考えてよいが,そのような鳥は実在しない。