日本武尊の足跡を追いかける

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伊吹山の荒ぶる神々と戦う

 
 
日本武尊は伊吹山の神々が暴れていることを知り、
神剣を宮簀媛の館に留めたまま征伐に向かいました。

 伊吹山への道                       

出発前の滞在地 

  東征を終えた日本武尊は尾張氏の館にしばらく滞在していました。
  宮簀媛が父とともに暮らしていた館は現在名古屋市緑区にある氷上姉子(ひかみあねこ)神社が鎮座するところです。火上山(ひかみやま)とも言われた海に面して小高いところにありました。この鎮座地はもともと「火高」と書かれていました。また、火高火上の里とも称されていました。よって延喜式神名帳にも「火上姉子神社」として記載されています。しかし永徳3年(1382年)に社殿が火災に遭ったため、「火上」を「氷上」に、「火高」を「大高」に改めました。
 

氷上姉子神社 名古屋市緑区大高町火上山)  GoogleMap

 宮簀媛命を祭神としています。
 火上山は宮簀媛や父乎止与命(おとよのみこと)の館があったところです。日本武尊はここで東征前に宮簀媛に誓った結婚をしました。そして、伊吹山に賊退治に出かけるまでしばらくの間ここに滞在していました。
 この神社の西に「元宮」とするところがあります。ここは宮簀媛の館があったところで、その跡地に仲哀天皇の時代に社殿が創建されました。現在の氷上姉子神社は持統天皇の時代に遷宮されました。
 

 
 
 
 
森の中にある氷上姉子神社本殿
 
  

宮簀媛の館

 

『日本書紀』 
 近江の五十葺山(いぶきやま 伊吹山)に荒ぶる神がいると聞いた日本武尊は宮簀媛の家に剣を置いて、歩いて行きました。五十葺山に着くと山の神が大蛇(おろち)に化けて道を塞いでいました。日本武尊は主神が蛇に化けているとは知らず「この大蛇はきっと荒ぶる神の従者にちがいない。主神さえ殺してしまえば従者なんかはどうでもよい」
と言われました。そして蛇を踏み越えて進みました。
 その時、山の神は雲を発生させて雹(ひょう)を降らせました。峰は霧がかかって谷は暗くなり、どこを歩いて行ったらよいか分からず、さまよってしまいました。それでも霧をかき分けて強引に進みました。するとやっと抜け出ることができました。

 
 宮簀媛の館に滞在しているとき、岐阜県と滋賀県境にある伊吹山を拠点として勢力を持っていた一族が大和朝廷に反抗していることを聞き、賊らの征伐に出かけることにしました。東征での賊退治を成功させた日本武尊には、伊吹山の賊なら難なく退治できるであろうという大きな自信があったのかもしれません。伊吹山へは神剣である草薙剣を宮簀媛の館に留め置いたまま出かけました。しかし、走水の海で海神を怒らせて最愛の妃弟橘媛を亡くしたという失敗は脳裏に焼き付いているはずなのに、再び過信して、伊吹山の賊を甘く見てしまったのかもしれません。
 神剣を火高の地に留め置いたまま出かけることにした理由は『尾張国熱田大神宮縁起』に見ることができます。
 

氷上姉子神社 元宮 宮簀媛の館跡 
名古屋市緑区大高町  GoogleMap
 日本武尊が伊吹山に向かう際、草薙剣はこの宮簀媛の館に留め置かれるのですが、これは日本武尊の宮簀媛への思いがありました。
 日本武尊が宮簀媛の館に滞在しているときのことです。ある夜中に日本武尊は厠(かわや:トイレ)に入りました。厠のあたりには一本の桑の木がありました。日本武尊は厠に入る前、身に着けていた剣をその枝にかけたのですが、厠を出るとそれを忘れて寝殿に戻ってしまいました。夜が明けて剣を忘れたことを思い出し、桑の木から取ろうとしましたが、その木全体が光り輝き、それは目を射るような強い光でした。それを気にせず剣をとって、宮簀媛に桑の木のことを話しました。姫は「特に木には不思議なことはありませんが、きっと剣が光り輝いていたのでしょう」と言われたので、日本武尊はまた寝てしまいました。
 数日たち、日本武尊は宮簀媛に「都に戻ったら媛を迎えに来るから、それまでこの剣を宝物とし、床の守りとしなさい」と言われました。
 それを聞いていた大伴武日臣(おおとものたけひのおみ)が「この剣はここに置いたままにしてはいけません。伊吹山には荒ぶる神がいます。剣の霊気なしでその毒気を払いのけることはできません。」と進言しました。日本武尊は「もしそうであったら足で蹴り殺してしまいましょう」と言って剣を宮簀媛のもとに置いたまま出発してしまいました。(『尾張国熱田太神宮縁起』より)
 
 このように、日本武尊は伊吹山に出発するとき、神剣を奉斎するよう宮簀媛に頼んだのです。それは、伊吹山に出かけた後の宮簀媛を剣の神霊により護らせるためだったと思われます。神剣がなくても勝てると考えたのは、伊吹山の神々を日本武尊は軽く見てしまていたのでしょうか。
 
 日本武尊が亡くなると宮簀媛は長く火上山の館で奉斎していましたが、宮簀媛も老い、現在の熱田神宮の地に社を建てこの神剣を祀ることにしました。

 草薙の剣
 
 
 
 
氷上姉子神社入口鳥居前に元宮への参道があります
左 西から見た元宮がある森
 
 
 
 
元宮 宮簀媛の館跡の碑
 

 伊吹山へ

 
 日本武尊がどのようなコースで伊吹山に向かったかを地図に伝承地を置き、それ見ながら推測してみました。伊吹山に行くには伊吹山までは次のような行程で出かけたと考えています。 

 
火上山から伊吹山までの行程(推測)
GoogleMap上に印してみました。
 
 上の地図は現在の地形をもとにしています。しかし、日本武尊の時代は濃尾平野奥まで海や干潟が広がっていました。そこで、今よりも海岸線を+5mにして、基準となる熱田台地や松巨嶋が現れるようにした地図を作成してみました。 その地図からわかったのは、七所社や萱津神社が海に消えてしまったことです。そこで七所社や萱津神社の伝承を重視して海水面を+2mに変更すると、基準となる松巨嶋は陸続きとなりましたが、熱田台地はその形が分かります。そこで七所社や萱津神社付近は干潟が広がっていたと考え、ここから各地の伝承をもとに伊吹山への経路を推測してみました。
 
http://flood.firetree.net
 
 
 上の地図と現在の地図を比べてみます。大きく違うのは伊勢湾が奥に入り込んでいることです。この部分を味蜂間(あはちま)と呼んでいました。現在安八(あんぱち)という地名の町が岐阜県南西部、濃尾平野北西部にあります。この地名は『日本書紀』の壬申の乱が書かれているところに「大海人皇子の湯沐邑(ゆのむら:皇族の領地)美濃国安八麿郡(あはちまぐん)」として登場します。この安八は味蜂間がもとになった地名です。この海の北の地域、現在の池田町までの広い地域を含めた郡だったようです。
 
 
 萱津神社から北に向かい移動すると一宮市の七つ石や笠懸の松を通過します。揖斐川を渡ると蛇池辺りで小さな争いが起こりました。これを治めた後に船で川を上り、阿遅加神社、岐南町の八剣神社から池田町に至ります。
 
 
 
氷上姉子神社 元宮 宮簀媛の館

 

船津神社
 愛知県東海市名和町船津1  GoogleMap
 滞在地の火上山を下り、船津神社があるところにから出航したと考えています。

 
 
 
少し高台、広い境内地にある船津神社
 

七所(しちしょ)神社 ・七所社 腰掛岩
 (愛知県名古屋市中村区岩塚町字上小路7)  GoogleMap
 祭神は日本武尊、高倉下命(たかくらじのみこと)、天照大神、宮簀姫命、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、乎止與命(おとよのみこと)、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)の七神です。熱田神宮との関係があり、もとはその領地だったところにあるようです。『尾張地名考』には延喜式御田神社は七社明神と書かれており、熱田神宮にあるのはここの遥拝所としています。現在は摂社として祀られています。室町時代に岩塚城主 が熱田神宮から八剱社、大幸田神社、日割御子神社、高座結御子神社、氷上姉子神社、上知我麻神社の七社を勧請して祀ったとされ「七所社」と名付けられました。現在この七所社を挟んで東に御田神社、南に上知我麻神社があります。
 境内に日本武尊腰掛石があります。伊吹山に向かう途中庄内川を渡るための船を待つ間座っていた石と言われています。また境内には3つの小塚(奈良時代の円墳)があり、その一つの塚の真ん中に大きな石があることから地名が「岩塚」となったと伝えられています。
 上のflood mapから推測して、当時は西に庄内川の河口があったかもしれません。

 
 
 
七所社 七所神社 二種類の表記がある
 
 
 
 
左 日本武尊腰掛石   右 神社横の堤防を上ると庄内川
 

 

萱津神社 愛知県あま市上萱津車屋19  GoogleMap

  祭神は鹿屋野比売神(かやのひめのかみ)です。草ノ社(かやのやしろ)、種の社(くさのやしろ)とも呼ばれていました。肥沃な土地を求めて移り住んできた祖先の人々がこの地に野の神鹿屋野比売神を奉祀したことが始まりとされています。神前に野菜と塩をお供えしていたところ、野菜が程よい塩漬物になったと言われ、女神の贈り物として伝えられてきました。
 日本武尊が東征の折、村人たちはこの野菜を献上したところ「藪に神物(こうのもの)」と言われ、その後「香の物」と書いて漬物を表す言葉になりました。

 
 
 
境内には鹿屋野比売神の銅像が立つ
 
 
 

七つ石(剣研石・砥塚)
 愛知県一宮市大和町戸塚  GoogleMap
 伊吹山に向かう途中ここで剣を研いだので砥塚と呼ばれていました。それが地名の戸塚となりました。
 これらの石は、一説では古墳の石室に使われていたのではないかと言われています。

 
 
 
 大小七つ以上の石が置かれています
 

 

笠懸社 笠懸の松
 愛知県一宮市大和町  GoogleMap
  「日本武尊笠懸松舊跡」と「笠懸の松」碑が建っています。伊吹山に向かう途中、七つ石を過ぎてここで休息しました。北にあった池の蓮の花がきれいに咲いていたのでそれを愛でたと伝えられています。小さな社があり笠懸社となっています。案内版からはこの社が熱田社と読み取れます。

 
 
 
当時の松は既に枯れています

 

 

  垂仁天皇の時代に倭姫命が天照大神を祀った元伊勢中嶋宮の伝承地があります。一宮の七つ石、笠懸社から海津に向かう行程を推測するとここは通過地と考えていいと思います。

神明社
 愛知県一宮市北方町中島宮浦 GoogleMap
 垂仁天皇の時代に天照大神を祭神として創建されたと言割れています。神名神社参道入り口(県道182号から分かれるところ)に「聖蹟日本武尊倭媛命」と書かれた立派な石柱があり、背面に「中嶋宮」の文字が書かれています。鳥居をくぐり参道を進むと神社があります。中嶋宮を記す石柱に日本武尊の名も彫られている理由はわかりません。この付近を通過したと言う伝承がかつてあったのかもしれません。

 
 
 
鳥居下はやや狭く、車の接触を注意しながら進みます
 

中嶋宮
 愛知県一宮市萩原町中島丸宮33 GoogleMap
 もとは八剣社で、神明社、白山社、天神社などが合祀されていました。昭和35年に現在名に変更されました。丸宮とも呼ばれています。一宮市内には他にも中嶋宮と伝える神社が数社あります。丸宮が「中嶋宮」とする説が有力のようですがはっきりとした根拠はありません。「中嶋宮」として『尾張名所図会』に描かれている社がこの社によく似ていると言われているのもその理由かもしれません。

 
 
 
参道入口の石柱には「八剣社」と書かれています
 
 
熱田社 愛知県稲沢市祖父江町山崎車田58 GoogleMap
 祭神は日本武尊、宮簀媛命です。創建年代は不明です。
 祖父江町は愛知県の西部に位置し、木曽川を挟んで岐阜県と接しています。雨が降ると土中の酸化鉄によって川の水が赤茶色になり、この水を昔から「そぶ水」と呼んでいました。これが祖父江の名の由来です。また、ここは秋に銀杏の木々が黄色く染まり、大変美しい景色を見せるところです。熱田社はその銀杏並木の中心地から少し離れたところにあります。
 
 
 
紅葉シーズンは多くの人が訪れます
 
 
 
 
銀杏の中心地からは少し離れています
鳥居がありますが前は木が茂り通行できません
 
 
 

 伊吹山の神は大蛇となって日本武尊を待ち構えます。
 岐阜県海津市の御霊神社には蛇池の大蛇退治が伝わっています。尾張国と美濃国の境に来た日本武尊は、蛇池に住む大蛇が里人たちを苦しめていることを知り、これを殺しました。この戦いはそれほど苦労はしなかったのではないでしょうか。ここにいた大蛇は伊吹山の神が差し向けた従者だったのかもしれません。このように考えれば、伊吹山山中で大蛇と出くわしてもそれを伊吹山の神とは思わず、蛇池で征伐した従者と同じだから放っておこうと思ったとしても不思議ではありません。

 

 

蛇池(じゃいけ)・御霊(ごりょう)神社
 岐阜県海津市平田町者結67番地  GoogleMap
 主祭神は御霊大神(ごりょうのおおかみ)です。創建年は不詳です。
 日本武尊が里人を苦しめていた大蛇を退治したと伝えられています。
 この伝承は『尾張国風土記』にも見ることができます。
 昔この村には大蛇が住む蛇池という池がありました。日本武尊がこれを誅殺したと伝えられています。地名の者結(じゃけつ)は「蛇穴」がもとになっています。所在地は美濃国になりますが、昔はこの村は尾張国中島郡に属していました。その後海西郡に属しました。御霊神社は大蛇の霊をまつっているようです。
 大蛇はそのまま大きな蛇(世界には体長8mを超えるニシキヘビがいます)のことでしょうか。あるいは、里人たちを苦しめていた伊吹山の賊らを大蛇と呼んだのでしょうか。

 
 
 
 
田んぼの中にぽつんと鎮座している御霊神社です
 
御霊(ごりょう)神社
 岐阜県海津市松木285-1 GoogleMap
 海津市には他にも御霊神社があります。
 祭神は御霊大神(ごりょうのおおかみ)です。
 
 
 
 海津市周辺に数社ある御霊神社の一社
 

蛇池・白髭神社
 岐阜県海津市平田町三郷1499-1  GoogleMap
 祭神は猿田彦神です。
 ここにも蛇池の大蛇退治が伝えられています。
 日本武尊が蛇池の大蛇を退治し、池の真ん中を埋め立てて社殿を建てました。

 
 
 
人気の小千代保稲荷近くの白髭神社です

 

 
 

八剣( はっけん)神社
  岐阜県羽島市竹鼻町3298番地の1  GoogleMap    主祭神は日本武尊です。          
 ここは日本武尊が伊吹山に向かう通過地と伝えられています。

 
 
 
日本武尊の伝承がある八剣神社 

 

 

 

   流れの速い木曽川を渡るため北上し、現在の愛知県一宮市と岐阜県岐阜市の境辺りから船に乗ったと思われます。着岸したのが羽島市の足近地区です。 

  

阿遅加神社(あぢかじんじゃ)
・旧八剣宮  岐阜県羽島市足近町直道1088-2  GoogleMap
 主祭神は日本武尊です。          
 日本武尊が伊吹山に向かうとき、霊泉があったこの地で休息しました。そのときの食事がとてもおいしかったので「味佳(あじか)」(佳は良いの意味)と褒めたとされ、地名の「阿遅加」の所以となっています。
 日本武尊が亡くなると子の若武彦王がここを訪れ社を建てたと伝えられています。

 
 
 
揖斐川近くの阿遅加神社

 
 阿遅加神社と同様の伝承が、同じ地区の八剣神社にもあります。
 

八剣(はっけん)神社
 岐阜県羽島市足近町5  GoogleMap             
 祭神は倭建命です。
 倭建命が伊吹山に向かう途中、海東、海西、中島を経て葉栗郡まできました。川を舟でやってきて橋の根本で休憩しました。このときの食事がおいしくて「味食(あじか)」と言ったことから「足近」と称されるようになりました。以前は「阿遅迦」と書いていました。

 
 
 
羽島市に多くある八剣神社の一社
 
 
 

 岐阜県南部の八剣神社

    岐阜県には日本武尊を祀る八剣神社が多くあります。
 その中で日本武尊の足跡が分かるのは上の2社と岐南町の1社です。他は後世の創建や由緒不詳です。以下それらを記載しておきますが、立ち寄り、滞在などの伝承はありません。
 

八剣(はっけん)神社
 岐阜県羽島市小熊町相田  GoogleMap
 主祭神は日本武尊です。
 創立年不詳
 

 
 
 
 
 
八剣(やつるぎ)神社 岐阜県岐阜市芋島4丁目3番8号 
 祭神は日本武尊
 貞享元年以前の鎮座
 
 
 
八剣(はっけん)神社 岐阜県羽島市堀津町426番地の1 

 祭神は日本武尊

 元和元年浅野将監が創立
 
 
八剣(やつるぎ)神社 岐阜県加茂郡八百津町和知2170番地 

 祭神は日本武尊

 明和四年再興
 
八剣(やつるぎ)神社 岐阜県安八郡輪之内町大藪1070番地の2 

 祭神は日本武尊

 創立年不詳
 
八剣(やつるぎ)神社 岐阜県養老郡養老町下笠字上市場291番地 

 祭神は日本武尊
 創立年不詳

 
八剣(やつるぎ)神社 岐阜県大垣市上石津町下多良1118番地 

 祭神は大山祇神(おおやまずみのかみ)

 創祀不詳
 
八剣(やつるぎ)神社 岐阜県海津市海津町日原字宮前553番地 

 祭神は正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)

 創立不詳
 
 

 
八剣(やつるぎじんじゃ)神社 岐阜県羽島郡岐南町みやまち4丁目 GoogleMap

  祭神は日本武尊です。日本武尊が東征の折、伊吹山へ向かう途中にここで休息しました。後に、この地に社を建てて熱田神宮の神霊を祀りました。

 
 
 
日本武尊の伝承がある八剣神社
 
 

   

天神神社 伊久良河宮跡 岐阜県瑞穂市居倉字中屋敷781  GoogleMap

 祭神は高皇産霊神(たかみむすひのかみ) 神産霊神(かんむすひのかみ)です。
 倭姫がここに4年間天照大御神を祀った元伊勢伊久良河宮跡(いくらかわのみや)跡と伝えられています。境内には「御船代石(みふなしろいし)」と呼ばれる祭壇があります。右の祠は神明宮、左は倭姫命が祀られています。
 日本武尊はこの地を通過し池田町に向かいました。

 
 
 
ここで天照大神を4年間祀った元伊勢
 
 
 
 
 禁足地と「御船代石」
 
  
 
  尾張国の八剣神社に代わり、美濃国に入ると白鳥神社に日本武尊の名が見られるようになります。

 

白鳥(しろとり)神社
 岐阜県揖斐郡池田町白鳥536番地  GoogleMap
 祭神は日本武尊です。 
 日本武尊が伊吹山に向かう時の通過地と言われ、葦原で道に迷っているところに白鳥が飛んできて道案内しました。揖斐川を利用して下流から船でここまで来たのではないかと思われます。当時はこの近くに葦原が広がり、それを突っ切ったように思います。背の高い葦の中に入り、方向を見失ってしまったところ、山に帰る鳥を見てその方に進んだところ現在の池田町に至ったと思われます。
    この神社には大碓命と小碓尊の木像が祀られているようですが見ることはできませんでした。

 
 
 
揖斐川近くの白鳥神社

 
 
 

岐阜県南部の白鳥神社

  他にはも日本武尊を祀る白鳥神社があります。
 その中で日本武尊の足跡が分かるのは池田町白鳥の白鳥神社のみです。他は後世の創建や由緒不詳ですが、池田町近くの神戸(ごうど)町にかたまっています。以下それらを記載しておきますが、何らかの関係があったと思われます。
 

白鳥神社 岐阜県安八郡神戸町北一色

 祭神は日本武尊 創祀不詳

 
 
 
 

白鳥神社 岐阜県安八郡神戸町横井

 祭神は日本武尊 創祀不詳

 
 
 
 

白鳥神社 岐阜県安八郡神戸町丈六道383の1

 祭神は日本武尊 創祀不詳

 
 
 

 

白鳥(しろとり)神社 
岐阜県瑞穂市呂久字町上1149番地  GoogleMap
 祭神は日本武尊、橘媛(弟橘媛)です。
 継体天皇の時代に創建されたようですが、美濃の国で弟橘媛を祀っているというのは珍しいと思われます。案内板には日本武尊の足跡に関することは書かれていませんでした。

 
 
 
 

白鳥神社 岐阜県本巣市神海597

 祭神は日本武尊 
 創祀不詳ですが美濃に封じられた大碓命との縁で祀られているようなことが拝殿内の案内板には書かれています。

 
 
 
 
  

 岐阜県揖斐郡池田町の白鳥神社からは二手に分かれて進んだと思われます。それは、伊吹山山麓を支配していた賊を西と東から挟む形になります。
 一軍は伊吹山の北を回り長浜市の方に行き、雲雀山に陣取ります。もう一軍は伊吹山の東から岩手峠を越えて山上の賊を攻撃します。

 

 

神明神社
 岐阜県揖斐郡池田町舟子  GoogleMap
  日本武尊の通過地と伝えられています。松明に火をつけ暖をとりました。

 
 
 
日本武尊軍は伊吹山の北を回ったかもしれない
 
 

 

杖立神社
 岐阜県不破郡垂井町岩手  GoogleMap
 祭神は日本武尊です。ここは岩手山の杖立神社の遥拝所となっています。
 ここは伊吹山に向かうときの通過地と伝えられています。日本武尊は伊吹山に杖をついて登りました。この杖が伊吹山の途中で大樹となったと言われています。

 
 
 
 

 
 

 

 
杖立明神二社
 岩手山に杖立神社があります。GoogleMapで確認すると、この山には杖立神社と明神神社の二社あることが分かります。別々の社と思いましたが垂井町にお住まいの方からその理由を聞くことができました。
 この神社地に町境があります。そのため、杖立明神は関ケ原町側の明神神社と垂井町側の杖立神社奥宮の二社あることになっています。二社とも祭神は日本武尊です。垂井町側にある逆さ杉が御神体となっています。 
 

明神神社
 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原 GoogleMap
  駐車場から鳥居をくぐると最近改築された木製の祠が見えてきます。日本武尊を祭神とする明神神社です。

 
 
 
関ケ原町の杖立明神
 
 
杖立神社 岐阜県不破郡垂井町岩手 GoogleMap
 祭神は日本武尊です。
 明神神社の奥に位置します。神名帳の杖立明神とされています。こちらは小さな石祠です。
 
 
 
垂井町の杖立明神
 
  

逆さ杉
 岐阜県不破郡垂井町岩手 
 杖立神社の御神木であり御神体ともされています。日本武尊が山を登るときに使っていた杉の杖を突き刺しておいたらやがて芽が出ました。それが成長して大樹となったと言われています。杖を上下逆に刺したため枝が下を向いていると伝えられていますが、これは枝に積もった雪の重みによって下がったのではないかとも思われます。
 この杉は杖立明神下にある表示に従って420mほど狭い山道を下ったところにあります。

 
 
 
 

 
 

伊吹山での戦い

 

雲雀(ひばり)山
  古矢眞(こやま)神社 滋賀県長浜市湖北町伊部  GoogleMap
 伊吹山の西にある小高いところです。ここに日本武尊軍が布陣しました。
 また、ここには伊吹山周辺で対立していた息長氏の軍も参加したと思われます。息長氏の娘は日本武尊の妃となっていますから(『日本書紀』に記載なし)、この戦いも息長氏の要請によるものであったとも考えられます。
 
 雲雀山にある古矢眞神社は日本武尊が東征の帰路滞在したとも伝えられていますが、ここは日本武尊軍の滞在地となっていたと思われます。

 
 
 
雲雀山の中腹に位置する古矢眞神社

 

息長氏の要請

  『先代旧事記』では日本武尊の妃の一人に息長氏の娘がいることになっています。息長氏は現在の米原市から長浜市一帯を本拠地としていました。大和朝廷の勢力下にあった息長氏は伊吹山山麓西側を支配していましたが、周辺の反逆者に悩まされてきたと思われます。日本武尊の出陣に際して、息長氏からも兵が集められ、雲雀山に集合したと考えられます。もともとこの戦いは、以前からの小競り合いに決着をつけるため、息長氏が日本武尊に参戦を要請したのではないでしょうか。

 

茶臼山古墳 
滋賀県長浜市東上坂町216 GoogleMap
 全長94m、高さ18mの4世紀末の前方後円墳です。自然の山を利用して造られていることが調査により分かっています。この付近には大変多くの古墳があり、これらは息長氏一族と関係があると考えられています。皇室との関係があった息長氏の力を知ることができる古墳群です。
 
 
 
茶臼山古墳
 

息長陵
 滋賀県米原市村居田字北屋敷  GoogleMap
 第30代敏達天皇の皇后に広姫がいます。この広姫の陵が息長陵(村居田古墳)とされています。古墳時代中期の築造で、もとは前方後円墳だったようです。付近には滋賀県の茶臼山古墳や垣籠古墳などがあり、長浜古墳群を構成していますが、いずれも息長氏に関係のある人物の墓と言われています。大和朝廷の成立時から朝廷との関係があり、第26代継体天皇は滋賀県高島市で生まれ福井県坂井市で育ったと言われていますが、息長氏との関係があるとも言われています。

 
 
 
宮内庁陵が管理する息長陵

 

戦いの相手

 

古代鉄の産地

金生山(かなぶやま・きんしょうざん) 
岐阜県大垣市赤坂 GoogleMap
 良質な石灰岩が採掘できることから、早くから多くの工場が立ち並び山を削ってきました。その結果写真のように山形が変わってしまいました。現在も続けられており、伊吹山周辺道路では毎日のように大型トラックの通行が見られます。また、ここは多種の化石の産地でもあり、学術的にも価値のあるところのようです。さらに、鉄鉱石が採れるところでもあったようです。化石博物館の方からいくつか見せていただきました。持ってみると手のひらに乗る大きさでも結構重く感じました。これに目を付けた有力者がいて、伊吹山東から南側にかけての広い範囲を支配していたと思われます。

 
 
 
金生山遠景 化石館近くからの金生山 金生山の鉄鉱石
 

金生山(かなぶさん)神社  岐阜県大垣市赤坂町4526  GoogleMap

 金生山の頂上付近ににある化石館に隣接して建っています。この辺りで金生山の化石を多く見ることができます。また、ここから少し離れた明星輪寺にかつて蔵王権現宮がありました。明星輪寺は飛鳥時代に持統天皇の勅命により役小角(えんのおづぬ)が開山しました。虚空蔵菩薩を本尊とするため「こくぞうさん」とも呼ばれています。蔵王権現が安閑天皇を祭神として改称し金生山神社となりました。
 日本武尊との関係はないようです。

 
 
金生山化石館 金生山神社 明輪寺

 

南宮大社 
岐阜県不破郡垂井町宮代1734 GoogleMap
 鉱山、鍛冶の神とされる金山彦命(かなやまひこのみこと)を主祭神としています。金山彦命は天照大神の兄神で神武天皇の東征で大活躍したと言われています。神武天皇の時代にここから2キロ離れたところに創建されたと言われ、崇神天皇の時代に仲山金山彦神社として現在地に遷座されました。その後、国府の南にある社ということから名称が現在名に変更されました。美濃国一宮であり、金の神の総本宮となっています。
 社殿は関ケ原の戦いで全焼してしまったため、徳川家光の時代に再建されたものです。
 この地に金の神がはやくから祀られていたことは、この地が鉄の産地であったことを物語っています。日本武尊の時代にはすでに存在していた社ですから、この前をとおっていても不思議ではありません。

 
 
 
寺院の山門のような楼門
 
 
 
 
きれいな朱塗りの拝殿

昼飯大塚古墳( ひるいおおつかこふん)
    岐阜県大垣市昼飯町  GoogleMap
 大垣市に長さ150mの岐阜県最大の前方後円墳があります。築造は4世紀末とされています。関ケ原に近く、濃尾平野の北端に位置します。前方後円墳という形、古墳の大きさなどから、この地域の首長が大和政権とつながっていたことを示していると考えられています。築造時期から考えれば日本武尊が伊吹山で戦った後の時代の古墳ですが、日本武尊とともに戦った首長につながる勢力地であったかもしれません。
 古墳の上からは北に金生山が間近に見えます。日本武尊との戦いのあと、大和朝廷の勢力下に入った伊吹山東側一帯を治めることになった一族の首長墓とも考えられます。

 
 
 
公園として整備され一部が復元された昼飯大塚古墳

 
 

伊吹山

伊吹山
 岐阜県・滋賀県  GoogleMap
 『日本書紀』では「五十葺山」「膽吹山」と表記されています。 
 『古事記』では「伊服阜能山」と表記されています。
 
 伊吹山は滋賀県と岐阜県境にある標高1377mの山です。琵琶湖国定公園に指定され、山頂からは眼下に日本一の湖琵琶湖を眺めることができます。
 
 山麓東から南側には木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)がつくる肥沃な濃尾平野が広がり、現在は宅地化が進んでいますが、かつては美濃国、尾張国の穀倉地帯を形成していました。また、伊吹山や養老山脈が造る地形により、冬に日本海から吹く冷たい季節風により濃尾平野に雪を降らすことがあり「伊吹おろし」と呼ばれています。
 

 
 
 
 
伊吹山山頂
 
 
 
 
米原市側 長浜市側から見た伊吹山冬景色
 
  

伊吹山3合目
  GoogleMap
 日本武尊が戦った場所は伊吹山の3合目辺りと言われています。現在そこに石祠(倭健命遭難碑)が置かれ、案内板にはここが難を逃れたところと書かれています。
 日本武尊本隊は杖立明神を過ぎて山頂の方を目指し、途中で伊吹山の荒ぶる神々の攻撃にあったのではないでしょうか。

 
 
 
 
伊吹山3合目の夏景色

 
 

伊吹山の戦い 記紀比較

 

 『日本書紀』
  近江の伊吹山(五十葺山:いぶきやま)に荒ぶる神がいると聞いた日本武尊は宮簀媛の家に剣を置いて、歩いて行きました。
 
 伊吹山に着くと大蛇(おろち)が道を塞いでいました。
 
 この大蛇は荒ぶる神の従者だとして踏み越えて進みました。
 
 実は山の神が大蛇に化けていたのです。
 
 山の神は雲を発生させて雹(ひょう)を降らせました。
 
 峰に霧がかり、谷が暗くなって道をさまよってしまいました。
 
 霧をかき分け進むと抜け出すことができました。
 
 日本武尊は意識もうろうとして、酔ったようになりました。
 
 居醒泉(いさめのいずみ)で正気にもどりました。
 
 しかし、病気になってしまいました。
 
 尾張へ帰り着いたのですが、宮簀媛の家には向かいませんでした。
 
 尾津(おづ 三重県桑名市)に到着しました。

 
 

米原市の銅像

『古事記』
  倭健命は素手で戦うからと草薙の剣を美夜受比売に預けて出かけることにしました。
 
 伊吹山のふもとで牛のように大きな白い猪が現れました。
 
 山の神の使いだから大したことはないと思って進みました。
 
 猪は山の神自身だったのです。
 
 山の神は大氷雨を降らせました。
 
 倭健命は大きな痛手を被ってしまいました。
 
 病にかかり伊吹山を下りました。
 
 玉倉部の清水を飲んで体を休めました。

 

  

伊福氏と「いぶき神社」4社

 
 伊吹山の位置から推測すると、当時、伊吹山東山麓を支配していたのは東山麓の神社に祀られている「息吹氏」と考えられています。
『古代氏族辞典』によると「息吹氏」は「伊福氏」とあり、天火明命を祖神とする「尾張氏」と同じ祖神で同族の「五百木氏」と書かれています。岐阜県不破郡垂井町の伊富岐(いぶき)神社には尾張氏の祖神が祀られています。この「五百木氏」→「伊福氏」と日本武尊は戦ったのではないでしょうか。
  岐阜県米原市にも伊夫岐神社があり、伊福(いぶき)氏と関係があります。
 
 

伊夫岐(いふき)神社 滋賀県米原市伊吹603  GoogleMap

  祭神は伊富岐大神(いぶきのおおかみ)です。創祀年代は不詳です。式内伊夫岐神社に比定されています。伊吹山山頂に祀られていたとも言われています。
 滋賀県神社庁は「祭神については、霜速比古命、多々美比古命、気吹男命、天之吹男命、又は素盞鳴尊であると、諸説があったが、明治初年より、八岐大蛇神霊として崇拝して来たところ、昭和18年、祭神を伊富岐神と改称された。」としています。

 
 
 
伊吹の神は八岐大蛇神霊か?

 

伊富岐(いぶき)神社 岐阜県不破郡垂井町伊吹1484-1  GoogleMap 

 祭神は伊吹山の神で多多美彦命(たたみひこのみこと)、八岐大蛇、天火明命、草葦不合尊ですが、実ははっきりしません。式内社で美濃国二之宮です。創祀年代は不詳です。      
 この地域を治めていた伊福氏がここに祖神を祀りました。祭神の多多美彦命は伊吹山の神で、別名夷服岳(いぶきだけ)神、気吹(いぶき)男神、伊富岐神とも言われています。また、他の祭神として八岐大蛇(伊吹山の荒ぶる神が化けた大蛇)、天火明命(尾張氏祖神)、草葦不合尊(うがやふきあえず:彦火火出見尊、別名山幸彦の子)が祀られているという説もあるようです。

 
 
 
広い敷地の伊富岐神社
 

伊吹(いぶき)神社 滋賀県長浜市山階町  GoogleMap

  祭神は伊吹神で創祀年代は不詳です。伊福氏との関係があると思われます。石碑には境内に湧水があり、農業神として「山田大蛇」が祀られていると書かれています。

 
 
 
ここも伊吹の神は八岐大蛇神霊か?
 

伊吹神社 滋賀県米原市上平寺286  GoogleMap

  祭神は素盞鳴尊で、創祀年代は不詳です。戦国時代に北近江を支配していた京極氏の館跡に建っています。上平寺を建立した僧が鎮護神として勧請したとも言われています。

 
 
 
 
 

伊吹山の神の正体

 伊吹山の神は「伊吹大明神」といいます。これは伊吹山そのもののことです。山をご神体として信仰していました。社伝等では伊吹山の神を八岐大蛇(やまたのおろち)、神武天皇、天火明命、多多美彦命としており、あるいは民間伝承により伊吹弥三郎という名もあげられています。実際のところはよくわからないのですが、祭神を大蛇とし素戔嗚尊を祀っているところがあるということは剣=鉄の関係が見えてきます。素戔嗚尊は八岐大蛇を斐伊川上流で征伐していますが、斐伊川上流は現在でも川底が赤く見えるところがあるように、そこは古代の鉄の産地でしたし、出雲ではたたら製鉄が盛んに行われていました。伊吹山東側も同じように、近くの金生山から鉄が産出したこともあり、この地域でたたら製鉄が盛んに行われていたのだろうと考えられます。これは「伊吹」はもとは「息吹」であり、鉄を作る際に空気を送るという意味を持っています。この製鉄を盛んにし周辺諸国を脅かすような力を持ち始めていた一族が伊福氏であり、大和朝廷から見ればこの力を奪っておきたい存在でした。
 
 

日本武尊は楽勝ではなかった

 日本武尊が間違えてしまった原因がいくつか見えます。
 まず、『古事記』に書かれているように素手で戦おうとしたことです。
 蝦夷討伐のための東征において日本武尊に勝利をもたらしたのは「草薙剣」の神霊です。東征前、倭姫命が伊勢神宮で日本武尊にこれを授けるとき「慎みなさい。怠ってはいけません。」と諭しています。日本武尊はこの言葉を大切にし、草薙剣を護り刀として身に着け、常に緊張感をもって東征に臨んだのだと思います。しかし、走水で海神を怒らせてしまうようなことを言って大切な人をなくしてしまったという経験もしています。それでもどこかに油断があったのかもしれません。尾張の宮簀媛の館に居て、再び心の緩みが出てしまいました。きっと東征で大勝利を得た日本武尊のことだから、伊吹山の荒ぶる神など簡単に征伐できてしまうと言われていたのかもしれません。素手で勝てる相手ではなかったのです。
 次に、伊吹山で最初に待ち構えていたのは「道をふさいでいた大蛇」(紀)、「牛のように大きな白い猪」(記)でした。大蛇や猪は戦うべき相手を意味しています。動物として記されていますが、実際の姿は人であったはずですが外見からこれを敵の将とは思わなかったのです。ここに日本武尊の油断がありました。蹴飛ばして先に進んだところで敵の総攻撃にあったのかもしれません。
 日本武尊は既にこの敵と戦っています。海津市の御霊神社(蛇池)で大蛇退治をしたときです。この時は簡単に勝負がついたのかもしれません。再び出会ったときに大した敵ではないと思ったのも仕方がないかもしれません。
 雹(紀)や氷雨(記)を降らせたという意味はたくさんの矢が飛んできたことを表しているのかもしれません。そんな中日本武尊はここから抜け出さなければ敗れてしまいます。日本武尊についていた従者たちが守りながら伊吹山を下りることにしました。記紀は大蛇や猪との戦いの結果を書いていません。激しい戦いで傷を負いながらも勝利したのか、双方が傷つき決着はつかなかったのか、厳しい戦いで逃げることになったのか、何も書かれていません。伊吹山から追手が来て、弱っている日本武尊を討ったとも書かれていません。
 さらに、日本武尊は将らを集めて作戦を練って集団(軍)で戦ったのでしょうか。思い付きか、その時の安易な判断で小集団で戦ったのではないかと思えてきます。伊吹山の敵は蛇池で日本武尊の戦い方を見ていて、本拠地(伊吹山)で作戦を立て待ち構えていたのではないでしょうか。
 
 厳しい戦いであったのですが、伊吹山の荒ぶる神を征伐したとします。辛くも戦勝したことで、伊吹山一帯は大和朝廷の支配下に治まったと考えられます。その結果、後に昼飯大塚古墳のような前方後円墳が築かれるような支配者が治めることとなったのでしょう。
 伊吹山の戦いのあと、日本武尊は重い病になってしまいます。都に戻り天皇に早く東征の報告をしなければならず、 一旦は尾張に向かった日本武尊でしたが、それをあきらめ、都に戻ることを決断しました。