日本武尊の足跡を追いかける 

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 東征 日本武尊は陸奥へ
 
 
日本武尊は房総半島の北の海から陸奥の蝦夷を征伐するため海路で北上しました。
途中いくつかの寄港地に上陸し足跡を残しています。

東征-陸奥へ 

 房総半島での戦いの後、弟橘媛の遺品や遺骸は袖ケ浦から本納まで運ばれました。そして、日本武尊は君津あるいは富津、勝山の海岸から外洋を船で回り、勝浦を経由して本納近くの海岸に上陸しました。ここで弟橘媛の陵を造るためしばらく滞在しました。そのあと、再び海路で陸奥に向かうため下総の海角と言われる出航地に向かいました。     
 

『日本書紀』 
日本武尊はすぐに上総から陸奥国(東北地方)に入りました。このとき、尊は大きな鏡を掛けた船で、海路で葦浦を回り、玉浦の横を通って、蝦夷の境に到着しました。

 
 

出航地

玉崎神社(たまさきじんじゃ) 千葉県旭市飯岡2126-1  GoogleMap

 祭神は玉依比賣命と日本武尊です。上総の国二の宮に位置付けられています。   
 日本武尊が東征の折、海上安穏、夷賊鎮定のため玉の浦の東端の玉が埼に創始されました。その後竜王岬に建てられ、天文年間に火災に遭い現在地に遷されました。創始されたのが玉の浦で、次に西の竜王岬に遷り、さらに飯岡に落ち着いたということは、現在の犬吠埼の付近が玉崎神社が創始された玉の浦ではないでしょうか。
 日本武尊は九十九里浜の北端から船出したのではないかと考えています。

 
 
 

葦浦  

 陸奥に属する地としている説もありますが、「安房の海角」とする歴史書もあります。すると葦浦は九十九里浜の南端よりさらに南です。葦浦と書くのはそこが葦が生い茂った泥地であるからです。『常陸国風土記』には常陸国と下総国の境としていますが、現在の地形とは異なっていたであろうからその場所を特定することは難しいのかもしれません。利根川の河口付近としてもよいかもしれませんが玉浦を過ぎる前に葦浦を見ていますから、犬吠埼付近を玉浦とすると葦浦はそれより南の九十九里浜かもしれません。また吉浦がかつて葦浦だったとする説もあります。
 

玉浦

 玉浦も実は諸説あります。
 その一つが行方の北浦湖の浜をさしているというものです。また、ずっと北の仙台付近をさすという説もあります。しかし、仙台はすでに蝦夷に入っています。『日本書紀』は玉浦を過ぎて蝦夷との境に入ったとしていますから、仙台は北すぎます。仙台はすでに蝦夷の領域で決して境ではありません。
 東山道を通ってきた建稲種命と海路を北上した日本武尊が合流したところが玉浦と言われています。すると、それらの合流点としてふさわしいのは陸前名取玉浦であるとする説があります。ここも蝦夷の領域から考え北すぎはしないかと思われます。さらに、『常陸国風土記』にある玉清井とすることもあります。ここは太平洋岸からは離れています。玉清井は湧水池とされていますから「浦」という語に適さないと思います。
 飯岡の玉崎神社は社伝によると、創建時は玉の浦(東端の玉が埼)にあったと書かれていますから、蝦夷への出航地としては、波の流れが速い先端の玉が埼よりやや西の竜王岬付近が適していると考えます。竜王岬から出航して玉の浦の先端にある玉が埼(犬吠埼付近)を横目で見ながら海路を北進したと推測しています。
 

九十九里浜と刑部岬からの眺め

 
 
 
左端写真の左上が竜王岬 他はその付近の海岸

 

銚子市犬吠埼・利根川河口

 
 
 
 
 

千葉北部の伝承地

九十九里浜周辺には玉崎神社が複数あります。

玉崎神社 千葉県いすみ市岬町中原4005  GoogleMap

 
 
 

 

玉前(たまさき)神社 千葉県長生郡一宮町一宮3048  GoogleMap

 御祭神は玉依姫命です。上総の国一の宮です。         
 神社は房総半島の東、九十九里浜の南端にあり、ここには縄文・弥生時代のころから集落がありました。この神社の境内に「白鳥井」があります。
日本武尊は東征の後尾張に戻りましたが、再び伊吹山で戦い亡くなりました。そして一羽の白鳥と化して飛び去ったと言われています。その白鳥が弟橘姫命の亡くなった上総の地へ飛来しました。白鳥が玉前神社の上空を舞っていたとき一枚の羽根が神社の井戸へ吸い込まれていきました。また、太東岬近くにあった湖に一羽の雌の白鳥が現れました。この白鳥は弟橘姫の化身と思われます。これを見た玉前神社の白鳥はすぐに湖の方に飛んでいき、湖で二羽が仲よく泳いでいました。夕方になると、一羽の白鳥が西の空へと飛んで行きました。
 神社近くの海岸では砂鉄が取れていたようです。日本武尊の東征目的の一つでもある鉄の産地を支配するという大和朝廷の権力拡大を物語る伝説かもしれません。

 
 
 

 
 

玉前神社・白鳥の井戸 千葉県長生郡一宮町一宮3048  GoogleMap

 
 
 

 

神洗神社  千葉県長生郡一宮町綱田  GoogleMap

 玉前神社(一の宮)の元宮で現在は末社となっています。
 祭神が海から上陸されたとき体を洗われたのが神洗池です。参道の赤鳥居脇の小さな池です。

 
 
 
 
 
 
 
南宮神社 千葉県長生郡一宮町宮原1131  GoogleMap
 豊玉姫命、金山彦命を祭神としています。
 日本武尊との関係はありませんが、一宮町の玉前神社の祭神が上陸した太東埼に年に一度神々が集まると伝えられている上総一の宮玉前神社の十二社の一社です。飛鳥時代の創建で岐阜の南雲大社から勧進したと言われています。
 
 
 
 
 

 

 

 玉の浦を過ぎた日本武尊が上陸したのは竹水門(たけのみかど)です。
 陸奥の東岸沿いに海路を北上した一行は、竹水門までのいくつかの寄港地に上陸し、休息、宿泊しました。これらの伝承地は海岸からさほど離れていないところにあることから、日本武尊は海路で海岸近くに寄港しながら北に向かったと考えられます。
 北上経路や途中の寄港地、再出航地とされるところは日本武尊を祀る神社の社伝にはっきりと見えているところもありますが、多くは祭神として日本武尊を祀っているのみで、創建時のことがわからない社があります。日本武尊が祀られているというだけで休息地や宿泊地だとすることも断言できません。しかし、それらの神社には江戸時代ぐらいまでは伝えられていた口碑伝承もあるようで、いつの間にかそれが途絶えてしまったのではないかと言われることがあります。口碑伝承は文書として残さない限り消えてしまうものなので、何がそこであったのか、あるいは何もなかったかは分かりません。しかし、何かの理由があって「祭神は日本武尊」としているということは「日本武尊の足跡」を最小限の形で伝えているのであろうと考えます。
 
 日本武尊はどこに、どのような順に寄港・上陸したのでしょうか。北進の経路を推測するために地域ごとのまとまりを考えてみました。祭神が日本武尊としている神社と社伝として日本武尊とのかかわりが書かれている神社を地図上にマークし、比較的近いところをまとめたいくつかのブロックを作りました。
 

寄港地候補 ブロック1

 

印旛沼 千葉県成田市  GoogleMap

 
 
 

 

香取神宮 千葉県香取市香取1697  GoogleMap

 
 
 

 

大戸神社 千葉県香取市大戸521  GoogleMap

 御祭神は天手力雄命(あまのたぢからおのみこと)です。
 日本武尊が東征のとき蝦夷征討祈願のため勧請したのが創建の由来です。そのためこの地には明確な足跡が残っています。
 また、近くに水戸光圀の生誕地を示す義公祠堂があります。
 
 義公生誕地 案内
 「水戸の生んだ不朽の傑人「水戸黄門光圀」(義公)は初代水戸藩主頼房(徳川家康の第11子)の第3子で寛永5年(1628)6月10日家老三木仁兵衛之次の邸に生まれた。母は谷氏(靖定夫人)といい義公の生誕を前にこの屋敷に一粒の梅の実をまいた。義公生誕とともに芽生え、成長とともに育ち、寛文7年(1667)義公40才の春ここに賞花の宴を催し「朽残る老木の梅も此宿のはるにふたたびあふぞ嬉しき」と詠んだ。歌に生母への思慕の情がうかがわれる」
 

 
 
 

 

大鷲神社(おおわしじんじゃ)千葉県印旛郡栄町安食3620  GoogleMap

 天乃日鷲尊(あめのひわしのみこと)、日本武尊他を祀っています。もと鷲宮・鷲賀岡神社と呼ばれていました。
 神社の鎮座地は安食(あじき)で、この地名は下総の総が麻布を表しており、そり縁によりついた地名と言われています。主祭神も麻に関係がある神のようです。江戸時代に春日局の崇敬厚く、当時将軍の船につけられていた金の鷲が奉納されています。
 日本武尊はこの地を御仮所に定め松の木を植えました。東国の平定を祈願し、松に熊手を立てかけて戦勝祈願したと伝えられています。その日が酉の日だったことから、今でも酉の市が行われています。

 
 
 

 

麻賀多(まかた)神社 千葉県成田市台方1番地  GoogleMap

 印旛沼の東側には18社の麻賀多神社があると言われ、中でも台方(公津)の麻賀多神社は本社と位置付けられています。麻賀多は千葉県は麻の産地であり、印波国造が多氏(おおし)出身、また、賀は喜びの意味もあるようで、それらを結び付けた名とも言われています。
 この神社は伊勢豊受大神の親となる和久産巣日神(わくむすびのかみ)を主祭神としています。麻に関係のある神で、この地で作られた麻は衣服の材料として献上されていました。そのため社紋は麻の葉となっています。別説では勾玉からついた名とも言われています。
 日本武尊がこの地にやってきたとき五穀の実りが悪いことを知りました。そこで村人たちに大木の虚(うろ)に鏡をかけさせ、根元には七つの玉を埋めて伊勢神宮に祈願しました。するとその後は豊作が続きました。
 その後印旛の国造としてこの地を治めた伊都許利命(いつこりのみこと)は鏡の教えを聞き、この鏡をご神体として、稚日霊命(わかひるめのみこと)を手里神社に祀りました。その後日本武尊が埋めた七つの玉を掘り出し、稚産霊命(わかむすびのみこと)を台方神社に祀りました。そして、この両社は麻賀多眞大神(まがたまのおおかみ)として崇敬されることとなりました。
 境内にある大杉は樹齢1300と言われています。日本武尊は大杉に戦勝祈願したとも伝えられているようですが、この大樹ではありません。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
麻賀多(まかた)神社 千葉県成田市船形834  GoogleMap
 祭神は稚日女神(わかひるめのかみ)で機織りの神とも言われています。
 船形(手黒)の麻賀多神社は奥宮です。千座山(ちくらやま)に鎮座しています。日本武尊が東征の折、昼間でも暗い山中を歩いていました。これを「天黒」と言ったので転訛して「手黒」となったと言われています。境内には印波国造の伊都許利命の墓と伝えられる古墳があります。
 
 
 
 
伊都許利命の墳墓
 
 
 
 

 寄港地候補 ブロック2

  

御船神社 茨城県行方市蔵川  GoogleMap

 日本武尊は御船で蔵川の入り江に着岸し、ここから上陸し騎乗して進軍したと伝わっています。里人は着岸地に石祠を置いて祀りました。また、騎馬軍が勢ぞろいしたところに御船神社を建て、日本武尊を祀りました。その後日本武尊が乗ってきた船は岩となったと言われています。
 
 *別ページでも触れていますが、この時代に馬は荷役用にのみ利用されており、人が騎乗しての利用はもっと後の時代からではなかったかと言われています。そのことから間違った情報が伝えられているとも考えられます。しかし、馬の利用については必ずしも否定すべきものではないのかもしれません。
 

 
 
 

 
 

矢神神社 茨城県鉾田市箕輪3139  GoogleMap

 

 
 
 

 

鹿島神宮・鹿嶋神宮(かしまじんぐう)茨城県鹿嶋市宮中2306-1  GoogleMap

 

 
 
 

 

大洗磯前神社(おおあらいいそさきじんじゃ)茨城県東茨城郡大洗町磯浜町6890  GoogleMap

 

 
 
 
 

寄港地候補 ブロック3

 
 れむ日本武尊は那珂川を上りました。

 
 
 

 

東征神社 茨城県水戸市青柳町  GoogleMap

 那珂川を上って着いた地に鹿島・香取の二神を祀りました。そして、武運を祈った後に乗ってきた船を沈めました。村人はその地に社を建て祀りました。今でもここには船体と錨が埋められていると伝えられています。

 
 
 

 
[×未参拝地(2019年夏訪問予定)]
×稲村神社(茨城県常陸太田市天神林町3228) 
 

寄港地候補 ブロック4

[×未参拝地(2019年夏訪問予定)]
×津神社 茨城県日立市十王町伊師805−1  -上陸地
×朝香神社 茨城県高萩市上手綱3394
×佐波神社(佐波波地祇神社) 茨城県北茨城市華川町上小津田 –鏡を埋めた
×佐波波地祇神社 茨城県北茨城市大津町 -漂流している船を助けた
×温泉神社 福島県いわき市常磐湯本町 -傷を癒した
 
 

寄港地候補 ブロック5

[×未参拝地(2019年夏訪問予定)]
×苕野神社 福島県双葉郡浪江町請戸 -元苕野小島にあったが崩壊
×益多嶺神社 福島県南相馬市 -出雲大社を勧請した。
×多珂神社 福島県南相馬市原町区高城ノ内112 -戦勝祈願のために勧請
 
 

寄港地候補 ブロック6

 

熱日高彦神社 宮城県角田市島田四拾刈  GoogleMap

  主祭神として天津日高彦火廼邇邇杵命、日本武尊を祀っています。
 日本武尊が大森山の麓に邇邇杵命を祀って平安を祈ったと言われています。

 
 
 

 
[×未参拝地(2019年夏訪問予定)]
×諏訪神社 宮城県角田市佐倉諏訪脇南
×鹿島天足和気(あまたらしわけ)神社(旧地は三門山) 宮城県亘理郡亘理町
×安福河伯(あふくかはく)神社 宮城県亘理郡亘理町逢隈田沢字堰下220
 日本武尊により勧請 創建時は東方の阿武隈川沿いにありました。
 
阿武隈川

 
 

 

船を出し竹水門に向かう

『日本書紀』 
 蝦夷の首領の嶋津神(しまつかみ)や国津神(くにつかみ)たちは竹水門(たかのみなと)にいて入港を阻止しようとしていました。しかし、遠くから近付く尊の船を見て、その威勢を恐れ、勝ちそうもないことを悟ると、皆、弓矢を捨てて、拝みました。
 「あなたを仰ぎ見るととても優れた人であることがわかりました。まるで神のようです。お名前を教えて下さい。」
日本武尊は答えました。
「私は、現人神(あらひとがみ)の皇子だ。」
 蝦夷たちはおそれおののき、すぐに服の端をたくし上げて海に入ると、波をかき分け、船を着岸させました。その後、ひざまずき尊に服従しました。これを見た日本武尊は蝦夷たちの罪を許しました。そして、日本武尊は蝦夷の首領を従者としました。

 
 

上陸地 「竹水門(たかのみなと)

 
 『日本書紀』では蝦夷の首領(嶋津神、国津神)は竹水門で日本武尊の船団を入港妨害しようとしました。しかし、船に取り付けられていた鏡が光、それは遠くからも見ることができました。戦いをしようと待ち構えていた蝦夷らはその威勢に恐れ、弓矢を捨てました。
 蝦夷らはその光り輝く人の前に跪き仰ぎ見て「あなたは神ですか」と問いました。日本武尊は「我は現人神の子だ」と答えると着物の裾を上げると海に入って船団の入港を助けました。その後、両手を後ろにして謝罪し、日本武尊に服従することを誓いました。これにより戦いをすることなく蝦夷を征伐することができたように読み取れます。
 この点は『陸奥国風土記』に異なったことが書かれています。
 
 竹水門がどこなのかは不明です。しかし、竹水門の竹(たか)は後の時代に「多賀」または「多珂」となったと推測します。水門(みなと)は湊(港)の意味ですから、現在の港があるところまたはその付近の海岸ではないかと考えました。そこで、いくつかの候補地を考えました。
 
 

竹水門の有力候補地 七ヶ浜

七ヶ浜・御殿崎・荒崎稲荷神社 宮城県宮城郡七ヶ浜町松ヶ浜  GoogleMap

 仙台港が近くにあります。御殿埼の名は日本武尊が仮宮をおいたところが所以ではないかと思います。

 
 
 
 

弁天沼 宮城県宮城郡七ヶ浜町湊浜砂山地内  GoogleMap

 教育委員会が弁天沼に設置した案内では、ここが竹水門と書かれています。湊浜と呼ばれてい地は多賀城への交通の要地でした。戦国時代に伊達氏の命により河川工事が行われ、古代の地形とは違った姿になったようです。そのため、現在小さな湖のように見えるところは古代の川の跡とされています。入り江には小さな島もあったようですが、現在は陸続きで、弁天が祀られているところから弁天沼と呼ばれるところもあります。
 日本武尊は波静かな湊浜から上陸したと考えられます。

 
 
 
 

冷鉱泉 宮城県宮城郡七ヶ浜町湊浜砂山地内  GoogleMap

 日本武尊が東征の折に泉を発見しました。水温16.5度、成分として硫酸ナトリウムや硫酸カルシウム他を含む冷泉です。

 
 
 
 
[×未参拝地(2019年夏訪問予定)] 

×多賀神社 宮城県多賀城市高崎
 

大代横穴墓群(おおしろよこあなぼぐん ) 宮城県多賀城市大代5丁目  GoogleMap

 7~8世紀頃に造られた横穴古墳群です。日本武尊による東征以降も、坂上田村麻呂により陸奥の平定が行われています。出土品から朝廷との関係がある豪族らの墓であろうと考えられています。日本武尊により一旦は平定された奥州でしたが、再び朝廷に反抗し始め、これを征伐するために征夷大将軍として坂上田村麻呂が派遣されました。

 
 
 
 
日本武尊が上陸した地には

志波彦(しわひこ)神社・鹽竈(しおがま)神社
宮城県塩竈市一森山1-1  GoogleMap GoogleMap
 二社が同一境内に鎮座し「志波彦神社・鹽竈神社」を名称として一法人です。
 鹽竈神社の祭神は塩土老翁神:しおつちのおじのかみ(別宮)、武甕槌神:たけみかづちのかみ(左宮)、経津主神:ふつぬしのかみ(右宮)です。
 志波彦神社祭神は志波彦大神です。
 もとは東山道の*北端の要衝にあったとされています。*しは=端の意味があるようです。明治時代に鹽竈神社境内に遷座されました。 

 
 
 
 
 
 

 
 

竹水門の候補地 ゆりあげ港

ゆりあげ港 宮城県名取市閖上  GoogleMap

 震災で姿を大きく変えてしまいました。写真は震災前のものです。
 地図上で上陸地を考えてみたところ、ここが適していると判断しました。それには近くに多賀神社があり、皇壇ヶ原という日本武尊に関わる伝承地があるからです。

 
 

多賀神社 宮城県名取市高柳字下西50番  GoogleMap

 
 
 

皇壇ヶ原  宮城県名取市高柳字皇壇原  GoogleMap

 日本武尊異賊退治の陣所と伝わっています。

 
 
 
 

 
 竹水門から上陸した日本武尊は、服従した首領たちを引き連れさらに北に進行しました。最北の伝承地を探し訪ねてみました。
 
 

日本武尊の東征 最北の地

 『日本書紀』では房総半島を折り返しているかのように書きながらも、山梨県の酒折宮では、より北の地域まで行ったことがわかるような歌を詠んでいます。日本武尊は実は現在の釜石まで北上していることが各地の社伝により見えてきました。そして、東北の広い地域を「日高見国」と呼んでいたことがわかってきました。
 
 日高見国(ひたかみのくに)は『常陸国風土記』(信太郡の条)に「白雉4年(653年)、物部河内・物部会津らが請いて、筑波・茨城の郡の700戸を分ちて信太の郡を置けり。この地はもと日高見の国なり。」と書かれています。このことから筑波・茨城郡とよぶ以前、下総より北の広大な地域は総称として「日高見国」と呼んでいたことがわかります。しかし、東征の帰路、酒折宮で日本武尊が「新治(茨城県)筑波を過ぎて幾夜か寝つる」と地名を含んだ歌を詠んでいます。ここから、日本武尊の平定により新治や筑波は広大な日高見国の南部に新たにつけた地名と考えます。すると、日高見の国は下総より北の常陸、茨城、筑波、さらに北の地域をさすようになったと考えます。後にこの日高見国はさらにいくつかに分割されることになるのです。
 
 日本武尊が蝦夷征伐のためたどり着いた最北の地はどこだったのか。私は、三つの場所があると推測しました。
 
 その① 釜石市の尾崎半島にある尾崎神社奥の院 
 その② 一関市の配志和神社
 その③ 福島県の八槻の郷にある都々古別神社 
 
 

日高見(ひたかみ)神社  宮城県石巻市桃生町太田字拾貫1-73  GoogleMap

 『日本書紀』の中に日高見の地名が見られます。この神社から日本武尊の伝承は見つかりませんが、「日高見」に行ったとする紀の記述から、この名をもつ神社に日本武尊が祭神として祀られています。

 
 
 
 

飯野山神社 宮城県石巻市飯野字宮下北134 GoogleMap

 日本武尊が東征の折、食べ物が乏しくなり困っているとこの村の三人の老人が尊に米を炊いて献上したことにいたく感動し、陸奥平定後に祠を建てました。

 
 
 

 
 

尾崎神社本宮 岩手県釜石市浜町3丁目23   GoogleMap

 尾崎神社の本宮は釜石港の近くにあります。尾崎神社は本宮のほかに尾崎半島に奥宮と奥の院があります。

 
 

 

尾崎神社奥宮 岩手県釜石市平田第8地割  GoogleMap

 釜石湾に突き出た尾崎半島の中ほど、かつて青出(あおだし)港があったところの背後に尾崎神社の奥宮があります。

 
 
 

最北の地 候補地① 

尾崎神社奥の院 岩手県釜石市平田  GoogleMap

 日本武尊の東征の最北端はここであろうと考えています。
 
 案内板には次のように書かれています。
 「尾崎神社奥の院は、古来から社のないお宮で、日本武尊を祀り、御神体は宝剣といわれています。源頼朝のー武将、鎮西八郎為朝の三男で、当時三陸沿岸地域を治めた閉伊頼基が承久2年に死去した際、遺言によりこの宝剣の傍らに葬られたともいわれています。鎌倉時代以前からの古社として知られています。」
  「尾崎神社縁起によれば、源頼朝に閉伊郡に封ぜられた閉伊頼基はと称した。承久二年、遺言によって天授院賢海はその遺骸を尾崎山宝剣の傍らに莽るとあります。尾崎神社の創立はこれより古く、宝剣を御神体として、石造の玉垣の中に、祀られてある。此処が奥ノ院です。近くに、天明元(一七八一)年六月建立の法華経丁子一石書写塔が現存しております。」
 
 なぜここに宝剣が祀られているのかは不明ですが、祭神を日本武尊としていることからここにも足跡があると考えています。

 
 
 

 

釜石観光船はまゆり

    尾崎半島は釜石湾に突き出した太刀のような形をしています。この半島の太刀根(たちがね)付近に尾崎神社の奥宮があります。
 現在は運航していませんが、震災以前は岩手県釜石市の遊覧船はまゆりが一日数回釜石港から尾崎半島を周回していました。はまゆりは全長28m、幅7.6mの双頭型高速観光船でした。尾崎神社の奥宮へは山道(途中から人があまり通らない獣道)を行く方法もありますが、釜石港から船で尾崎半島の中ほどに位置する青出(あおだし)港まで行くことで参拝できました。奥の院へはさらに約30分(陸中尾崎灯台コース入り口の案内による)ほど半島の先端に向かって山道を登って行きます。
 私が奥の院に参拝したのは震災前です。その日の朝は霧が濃く発生しており、青出港行きの船は霧が消えるまで出航しないと発表されました。昼近くなり、霧が晴れ始めると観光船が出航できるように天気が回復しましたが、出発する便は定期便で青出港には寄港しないはずでした。しかし、朝から港にいて待っている私を見ていた船長の好意で特別に青出港にも寄港してくださることになりました。青空が広がり、お陰で私は無事に尾崎半島に上陸することができました。また、この時期クマが出没するからと観光船のスタッフの方がホイッスルを貸してくださいました。次にはまゆりが青出港に寄港する時間までに青出港に戻らないと獣道を数時間歩いて釜石港に戻らないといけなくなるため、青出港-奥の院の往復約60分の山道を走り、急ぎ参拝してきました。
 この観光船は東北関東大震災の折、大槌町赤浜港で点検中でした。その船が津波により海から随分離れた民宿の屋根の上に乗り上げてしまいました。震災を伝えるためにこのまま保存しようという意見もありましたが、住民の考えを尊重し、解体することとなりました。そのため、二度と雄姿を見ることはできなくなりました。私にとっては船長の好意とともに一生忘れることのできない船となりました。

 
 
青出浜・青出港と観光船はまゆり

 
 

 青森の日本武尊

 日本武尊が祀られている神社がさらに北にあります。平安時代に陸奥の平定のために派遣されたのは征夷大将軍の坂上田村麻呂です。坂上田村麻呂は東征を行った地で日本武尊を祀っています。青森県にもそれを伝える神社があります。日本武尊が蝦夷征伐のために来たという伝承はありません。
 

十和田神社 青森県十和田市奥瀬字十和田14  GoogleMap

  祭神は日本武尊です。青森県にある十和田湖の中山崎という岬の元に建っています。創建に関わる由来は二つあるようで、その一つが坂上田村麻呂が東征の折ここを訪れたことによります。湖が荒れて渡れないため、祠を建てて日本武尊を祀り祈ったところ、筏を組んで渡ることができたというものです。少し歩けば高村光太郎が造った「乙女の像」があります。

 
 
 

 

東征の帰路 陸奥の道 

 陸奥の奥地から常陸や武蔵を経由して甲斐まではほぼ現在の国道4号沿いに南下したのではないかと思います。この道は古代東山道(とうざんどう)だった道です。
 

東征の帰路 奥州ブロック1

 
 

駒形神社 岩手県奥州市水沢区中上野町1- 83

 

 
 
 

  
    

白山神社(はくさんじんじゃ)岩手県西磐井郡平泉町平泉字衣関173番地

 
 
 

 

最北の地 候補地②    

配志和神社 岩手県一関市山目館

 祭神は高皇産霊尊(たかむすびのみこと)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)です。もとは磐座山に鎮座し「火石輪」と称していましたが、後に現在地に遷座しました。
 日本武尊が東征の際に陣を置いたところで、山に登り戦勝祈願するため矛を収め、三神を祀って奥州鎮護の神として祠を建てました。これが「火石輪」の始まりです。後に「配志和」と改称されました。
 本殿前の2本の杉の大木は樹齢千年以上で「夫婦杉」と呼ばれる神木です。市内では最古で最大の樹木です。
 『ヤマトタケル』産経新聞取材班著 産経新聞出版 にはこの神社の宮司さんの話が紹介されており、「ヤマトタケルは東征先の各地で神々を祭ってきたが、ここが最北と言われています」と書いています。

 
 
 
 
 
 
 
 
配志和神社入り口に建つ白鳥神社
 
 
 

             
 

東征の帰路 奥州ブロック2

 

吾勝(あかつ)神社 岩手県一関市萩荘字芦ノ口286番地

 標高314mの自鏡山にあります。吾勝大神、保呂羽大神、白鳥大神を祀っています。日本武尊はここで戦勝祈願をしました。

 
 
 

 

遠流志別石(おるしわけいし)神社  宮城県登米市石越町北郷字中沢81

 神社縁起によると、日本武尊が東征に出発して伊勢に立ち寄り、倭姫から「これを戴き就くべし」と天照皇大神より伝わる明玉を授かりました。東国の平定がなされるとこの石は霊石となって子石を産み50にわかれたと言われ、このことから「石子石の里」と呼ばれていました。それはやがて現在の地名「石越」に変わったと言われています。別説としては付近より産出する礫岩が風化して丸い子石になってちらばっていることから石が子を産んだかのように見え
自然崇拝につながって石神社として祀ったと言います。

 
 
 
黄金山神社
 
 
 
 

 
 

雄鋭(おとの)神社  宮城県栗原市栗駒稲屋敷高松51

 
 
 
 

 

勅宣日宮(ちょくせんひるみや)駒形根神社  宮城県栗原市栗駒沼倉字一の宮7

 日本武尊は東征の折この神社の祭神に祈願しました。また、平安時代に征夷大将軍となった坂上田村麻呂もここを参拝しています。

 
 
 
 

 
 

東征の帰路 奥州ブロック3

 

 
佐倍乃神社(さえのじんじゃ)・道祖神社 宮城県名取市愛島笠島字西台2

 日本武尊の東征の折に勧請しました。

 
 
 

 
 

多賀神社(宮城県仙台市太白区富沢3-15-1)

 日本武尊が東夷追討の折勧進されました。 

 
 
 

 
 

清水峯神社(しみずみねじんじゃ)宮城県名取市愛島小豆島字清水坂27番

  
 日本武尊が東征の際に参拝しました。

 
 
 

 
 
 

飯野坂古墳群(いいのざかこふんぐん)宮城県名取市飯野坂山居

大型前方後方墳
 

 
 
 

 

雷神山古墳(らいじんやまこふん)宮城県名取市植松

東北最大規模の前方後円墳 古墳時代中期

 
 
 

 
    

東征の帰路 奥州ブロック4

 

白鳥神社  宮城県柴田郡村田町大字村田字七小路3-3

 祭神は日本武尊です。
 日本武尊が東征の折布陣した地と言われています。その後景行天皇が皇子を偲んで白鳥宮を建立しました。
 また、平安時代に前九年の役が起こったとき、八幡太郎源義家はここに参拝し戦勝祈願をしています。境内には「奥州の蛇藤」と呼ばれる木がありますが、この木は大蛇に化身して敵に囲まれた源義家を救ったと言われています。

 
 
 
 

 
    
 
 

遠刈田(とおかったおんせん)温泉湯神神社 刈田郡蔵王町遠刈田温泉

(刈田郡蔵王町遠刈田温泉)

 
 
 
 

古峰(こばはら・こぶはら)神社

 祭神は日本武尊です。

 
 

 
 

刈田嶺神社(かったみねじんじゃ)白鳥大明神  宮崎県刈田郡蔵王町宮字馬場

 
 
 

 
 
 

 

白鳥古碑群 宮崎県刈田郡蔵王町宮字馬場

 この地域では古くから白鳥信仰が行われてきました。
 東征でこの地を訪れた日本武尊は長者の館に逗留しました。その際世話をしたのが長者の娘で、この娘と結ばれ一人の男児を出産しました。日本武尊は妻子を残し都へと帰っていきましたが、男児は成長するとともにその能力を発揮しました。里人はいつか征服されると恐れ、謀って川に投げ捨てました。すると、男児は白鳥に化身し西の方へと向かって飛んでいきました。その後この里には災いが起こるようになりました。神罰が下ったと恐れた里人は白鳥が飛んで行った西の山に祠を建てて祀りました。その後災いはなくなったとのことです。「内方」「児捨川」「西宮」などの白鳥伝説に関係のある地名が残っていると案内に書かれています。

 
 
 

 

刈田嶺神社(かったみねじんじゃ)宮城県刈田郡蔵王町遠刈田温泉仲町1

   

 
 
 

 

刈田嶺神社(かったみねじんじゃ)蔵王山頂(奥宮)・宮城蔵王

 
 
 
 

 

岩崎山金窟址(いわさきやま きんくつし)宮城県蔵王町遠刈田温泉字遠刈田北山

 
 
 

 

東征の帰路 奥州ブロック5

  

白鳥宮・白鳥神社 宮城県白石市福岡深谷字明神10番

 
 
 

  

東征の帰路 奥州ブロック6

 

大鷹神社(山形県山形市大字沼木55-1)

 祭神は日本武尊です。

 
 
  

 

天満神社 山形県山形市小白川町3-4-6

 日本武尊が主祭神です。東征の時、この地が陣営となり、その跡が払鬼城(ふっきじょう)と呼ばれるようになりました。平安時代に鎮護国家を願い創建されました。

 
 
 
 

 
 
 

東征の帰路 奥州ブロック7

 

飯坂温泉鯖湖湯(さばこゆ) 鯖湖神社 福島県福島市飯坂町

 日本武尊が病気になったとき、この地で湯浴したところ平癒したと言われています。その後江戸時代には松尾芭蕉も飯坂に立ち寄り湯に入ったと言われる名湯です。鯖湖湯は飯坂温泉の古称のようです。

 
 
 

 

飯坂温泉 福島県福島市飯坂町十綱町

 日本武尊が佐波子の湯に入って病気が平癒したと伝えられています。

 
 
 

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東征の帰路 奥州ブロック8

 
 

白和瀬(しらわせ)神社 福島県福島市大笹生字折戸41

 祭神は日本武尊です。

 
 
 

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   ×須川南宮諏訪神社(福島県福島市伏拝清水内34)
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   ×桙衝神社(福島県須賀川市桙衝)
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東征の帰路 奥州ブロック9

 八溝山の闘い『陸奥国風土記』逸文には「八槻」の地名の由来として日本武尊が賊を征伐した話が書かれています。風土記ではここで土蜘蛛らと激しく戦った様子も描かれています。
 日本武尊が東国の蝦夷を征伐するためこの地にやってきました。そして、「八目(やつめ)の鳴鏑矢(なりかぶらや)」で賊を射て殺しました。この矢が落ちたところを矢が着いた所として「矢着(やつき)」と言うようになりました。726年(神亀3)、「八槻」という字に変わり現在に至っています。
 
  『陸奥国風土記』には続きがあり、戦いについてさらに詳しく書かれていました。
 この地には次の八種族の土蜘蛛が住んでいました。
 1黒鷲(くろわし)
 2神衣媛(かんみそめ)
 3草野灰(くさのはい)
 4保保吉灰(ほおきはい)
 5阿邪尓那(あざにな)
 6栲猪(たくしし)
 7神石萱(かんいしかや)
 8狭磯名(さしな)
 それぞれの部族はそれぞれの要害の地にある岩屋に住んでいました。
 昔国造の磐城彦(いわきひこ)と戦いましたが国造が敗走しそれからは人々を奪い去ることがありました。そこで、景行天皇は日本武尊を派遣し土蜘蛛たちを征伐させようとしました。それを知った土蜘蛛たちは互いに連携して防戦することとし、また、津軽の蝦夷とも共謀しました。蝦夷らは、猪鹿弓(さつゆみ:狩猟用の強弓)を岩城に連ねて張り、猪鹿矢(さつや:狩猟用の矢)で兵を打ちました。兵らは一歩も進むことができませんでした。このとき日本武尊が槻弓と槻矢を手に取り七発、八発と射放たところ、七発が雷鳴のように鳴り響き、蝦夷らを追い散らしました。そして、八発は土蜘蛛の首領八人を射殺しました。8人の土蜘蛛を倒した8本の矢は、やがて芽を出し、槻の木(けやき)となりました。これが八槻の言われです。
 その後、神衣媛と神石萱の子孫は許されて綾戸(あやべ)族として住んでいます。
 

最北の地 候補地③

都々古別神社 福島県東白川郡棚倉町大字八槻字大宮224

 祭神は味秬高彦根命で日本武尊が相殿に祀られています
 日本武尊が東征に来たとき、土蜘蛛たちが津軽の蝦夷と一緒になって抵抗しました。日本武尊が7本、8本と矢を放つと、7本の矢が雷の如く鳴り響きながら蝦夷の徒党を追い散らしました。そして8本の矢が土蜘蛛を射抜きました。この矢から芽が出て槻の木となりました。そこで、この地を「八槻」と言うようになりました。
 日本武尊が東征の折、高篠山に陣をおき、八満山の賊と戦いましたが相手は強敵でなかなか勝つことができませんでした。そこで天地神明に祈ったところ、味秬高彦根命が現れて日本武尊を助け相手を討ち滅ぼすことができました。

 
 
 
 

 

都々古別神社 福島県東白川郡棚倉町棚倉馬場

 祭神は味秬高彦根命で日本武尊も祀られています。

 
 
 

 
[×未参拝地(2019年夏訪問予定)]
×八溝嶺神社 茨城県久慈郡大子町上野宮字八溝
×八溝嶺神社 栃木県大田原市両郷
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×磯部稲村神社(茨城県桜川市磯部772)
×羽梨山神社(茨城県笠間市上郷3161−1)
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東征の帰路 奥州ブロック10

  

来栖(くるす)神社 茨城県笠間市来栖1105

 日本武尊がこの地に立ち寄った折、村人が栗を拾ってきて差し出しました。この栗がおいしかったので日本武尊は「くりのす」と名付けました。それが「来栖」となったと言われています。

 
 
  
 

加波山神社・加波山 茨城県新治郡八郷町大塚3398

 
 
 

 
「常陸(ひたち)」の国 『常陸国風土記』より
 倭武天皇が蝦夷から新治を通ったとき、国造の毘那良珠命(ひならすのみこと)が派遣され、井戸を掘りました。すると、清く澄んだ水が湧き出したので、この水で手を洗いました。そのとき、衣の袖が垂れて水にひた(浸)りました。尊が衣の袖を浸したことから「ひたち」となったと言われています。
 
[×未参拝地(2019年夏訪問予定)]
×常陸国総社宮(茨城県石岡市総社)
 日本武尊が腰かけたと言われる石があります。
 
    

東征の帰路 奥州ブロック11

 

筑波山神社(つくばさんじんじゃ)・筑波山 茨城県つくば市筑波1番地

 筑波山は標高876mの男体山と女体山の二峰からなる信仰の山です。筑波山神社のご神体ともされています。    

 

 
 
 
 
男体山に伊弉諾尊、女体山には伊弉冉尊が祀られています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

高椅神社 栃木県小山市高椅702-1

祭神は磐鹿六雁命、国常立尊、天鏡尊、天萬尊で、磐鹿六雁命(いわかむつかり)は景行天皇が東国を巡視されたときに従っていた者です。船で淡水門(あわのみなと 浦賀水道)を渡ったとき、蛤と鰹を料理して献上したところ、天皇が大変喜び、膳臣(かしわでのおみ)を授けました。このことにより磐鹿六雁命は料理の神として祀られるようになりました。

 
 
 

 
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