日本武尊の足跡を追いかける 

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東征帰路  日本武尊は常陸の国へ

 
 
 

 
常陸の国の司つかさが申し上げます。
古への翁たちの伝へ語り継いできた古き物語を

東征の帰路  茨城へ

 

『日本書紀』 

 蝦夷を平定した後、日本武尊は日高見国から帰って常陸(茨城県)を経由し、甲斐国(山梨県)に到着し、酒折宮(さかおりのみや)に来ました。

 

 『常陸国風土記』

『常陸国風土記』は奈良時代の713年に編纂が始まり、721年に成立した地誌です。

 

 

 常陸国

 『常陸国風土記』の中で、常陸の地名についての由来が書かれています。
 
  *倭武天皇が蝦夷から新治を通ったとき、国造の毘那良珠命(ひならすのみこと)が派遣され、井戸を掘りました。すると、清く澄んだ水が湧き出したので、この水で手を洗いました。そのとき、衣の袖が垂れて水にひた(浸)りました。尊が衣の袖を浸したことから「ひたち」となったと言われています。
 
  * 『常陸国風土記』では日本武尊を「倭武天皇」と称しています。天皇の称号は記紀の編纂を命じた天武天皇の時代から使われています。風土記が編纂された奈良時代には「天皇」の意味は伝わっているはずです。しかし、それでも「倭武天皇」としたのはなぜでしょうか。
 一般的に天皇の読みは「すめらみこと」とすることが多いようです。茨城県内で「天皇」に「みこと」と読み仮名をつけている案内板を見ました。これならば倭武天皇は「やまとたけるのみこと」と読むことになり、漢字表記上の混乱があったかもしれないと思います。
 大和から遠く離れた常陸国では「天皇」の意味や読みが正しく伝わっていなかったのでしょうか。編者の間違い? あるいは『宋書』倭国伝の「倭王武」と何らかの関係があるのでしょうか。
 さらに、日本武尊は常陸国では天皇だったとも考えられます。天皇自らが大和を離れ、各地に征伐に出ることは父景行天皇も行っていたことです。天皇である日本武尊が東征のため常陸にやってきたということです。
 いずれにしても正解が見つかりません。
 

「ちばらき」(千葉と茨城)は要の地

 

FloodMaps +6m
http://flood.firetree.net

 常陸国(ひたちのくに)という国名は下総の北、陸奥国の南に位置し、現在の茨城県の大部分が含まれています。このような国名は日本の律令制により置かれた地方の行政区です。常陸国成立以前は日高見(ひたかみ)国とされており、日本武尊の時代は蝦夷の住む辺境の地でした。
 
 日本に「神宮」とつけられている神社は『日本書紀』では伊勢神宮、石上神宮、出雲大神宮(出雲大社)で、『延喜式神名帳』では伊勢神宮内宮、鹿島神宮、香取神宮のみでした。*明治から昭和にかけて、橿原神宮、霧島神宮、伊弉諾神宮、熱田神宮など天皇やその祖神と関係のある神を祀る神社が神社から神宮と改称しています。
 上の地図を見ると分かりますが、古代の霞ケ浦は北浦とつながっていました。これより北は蝦夷の地で、これを監視をするかのように鹿島神宮、香取神宮が対面して建っています。(現在は利根川をはさんでいます) 二社の祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)別名鹿島神と経津主神(ふつぬしのかみ)別名香取神で共に軍神です。この二神が蝦夷ににらみを利かせているのです。
 

陸奥から常陸へ

 陸奥国(東北地方)の真ん中を南下してきた日本武尊は現在の栃木県宇都宮辺りから東に向かったと考えられます。
 

磯部稲村神社(いそべいなむらじんじゃ) 茨城県桜川市磯部772 GoogleMap

 祭神は以下の通りです。
 天照皇大神(あまてらすおおみかみ)、栲幡千々姫命 (たくはたちちひめのみこと)、瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)、木花佐久耶姫命(このはなさくやひめのみこと)、天太王命(あめのふとたまのみこと)、玉依姫命(たまよりひめのみこと)、天手力雄命(たぢからおのみこと)、玉柱屋姫命 (たまはしらやひめのみこと)、天宇受売命 (あめのうずめのみこと)、倭姫命(やまとひめのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、日本武尊
 景行天皇40年(西暦111)10月、日本武尊、伊勢神宮の荒祭宮である礒宮を此の地へ移祀したと伝えられています。
 日本武尊東征の折、常陸の桜川で皇大神宮を遥拝して祀りました。境内には要石があります。この石は縄文時代より住民の信仰の対象となっているようです。一説によるとこの地はかつて鹿島の神領であって、
鹿島神宮の戌亥(西北)の鎮守とされています。鹿島神宮要石は凹型で、鹿島の要石は鯰(なまず)の頭を押さえ、礒部の要石は凸型で、鯰の尾を押さえる(地震がおこらない)と言われています。

 
 
 
 
 
 
 

 
 

羽梨山(はなしやま)神社 茨城県笠間市上郷3161-1 GoogleMap

 祭神は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)命です。
 日本武尊が東征の折、この地に陣を置きました。この時、兵士たちの喉は渇き、食糧にも困っていました。すると山果を持った磐筒男と磐筒女の神が現れました。日本武尊はこれに感謝し、朝日丘にこの二柱を祀りました。これが所以で羽梨山と称するようになりました。

 
 
 

 

常陸国総社宮 茨城県石岡市総社2-8-1 GoogleMap

 祭神は伊弉諾命 (いざなぎのみこと:筑波男大神と同神)、大国主神 (おおくにぬしのかみ)、素戔嗚尊 (すさのおのみこと)、瓊々杵命 (ににぎのみこと)、大宮比賣尊命(おおみやひめのみこと)、布留大神 (ふるのおおみかみ)と常陸国諸神です。
7世紀以降武蔵国、周防国、近江国、土佐国、伯耆国などに国衙がおかれ、その近くに国司が国の安定を神に祈るための総社が創建されました。常陸国には現在の茨城県石岡市総社におかれ、ここから歩いて5分ほど南に常陸国の神々を合祀した総社として創建されています。

 
 
 
 
 
 
 

 総社がここに建てられる以前に日本武尊に関係のある社があったかは不明ですが、常陸国総社境内には日本武尊が腰かけたと言われる石(神石)があります。この地が日本武尊の立ち寄り地あるいは滞在地となっていたと考えられます。

 
 
 

 
 

常陸国周回

  以下、『常陸国風土記』の倭武天皇(日本武尊)に関する部分を取り出してみました。
 

 

  

 常陸の国の司つかさが申し上げます。古への翁たちの伝へ語り継いできた古き物語を。

 

 

 昔は、相模国の足柄坂から東の諸地域は全て吾妻(あづま)の国といっていましたので、常陸国はありませんでした。ただ、新治(にひばり)、筑波(つくば)、茨城(うばらき)、那賀(なか)、久慈(くじ)、多珂(たか)の国があり、朝廷からより造(みやっこ)と別(わけ)が派遣されていました。
 後に、孝徳天皇の時代に、高向臣(たかむこのおみ)や中臣幡織田連(なかとみのはたおりだのむらじ)らを派遣して、足柄坂より東を八国に分けて全て治めました。その八国の一つが常陸(ひたち)国です。
 
 人々が往来するのに広い川を渡ることもなく、また郷の境界が山や川に沿って続いているので、直行できるという意味の「ひたみち」から常陸「ひたち」の名になったと言われています。。
 また、倭武天皇が、東夷(えみし)の国を巡られたとき、新治の県を過ぎたころ、国造の毘奈良珠命(ひならすのみこと)命に、新しく井戸を掘らせたら、新しい清い水が流れ出ました。輿を止めて、水を褒めながら手を洗おうとすると、衣の袖が垂れて泉に浸ってしまいました。その袖を浸(ひた)したことにより「ひたち」となったとも言われています。言い伝えで「筑波嶺(つくばね)に黒雲かかり、衣袖浸(ころもでひたち)の国」といっているのです。

 

 常陸国は、土地が広く、はるか遠くに山が見え、土が肥沃で、広々とした野が広がる国です。海や山の幸に恵まれ、人々は幸せで、家々は満ち足りています。農業に励んだり糸を紡ぐ者たちに貧しい者はいません。左方の山では塩、右方の海では魚がとれます。また、後ろに桑畑が広がり、前には麻が栽培されています。山海の幸が豊かなところです。ただ、上級の米が少ないので、長雨が続くと苗が育たないことがあります。丁度いいぐらいの日照りがあれば豊かに実ります。

 
 

 倭武天皇が海辺を回って乗浜(のりはま)にたどり着きました。浜にはたくさんの海苔が干してあったので、ここを能理波麻(のりはま)の村と名付けました。
 

 役所より東十里のところに桑原の丘があります。
昔、倭武天皇が、この丘の上に滞在して食事をされたときに、水部(もひとりべ)に命じて新しい井戸を掘らせました。この清く香ぐわしい水はおいしく「能くたまれる水なり」とおおせられたので、この里の名を、田餘(田余:たまり)といいます。

 

 
 

玉里   茨城県小美玉市栗又四ケ2460番地3  GoogleMap

  田餘(たまり)という地名は玉里と字が変わっても残っています。
  鹿島鉄道玉里駅は、かつて小美玉市にありましたが廃線となりました。

地名 玉里

 

 昔、倭武天皇が天の下(*天皇が治める領地)を巡幸され、東北地方に向かわれた時、この国を通られました。槻野(つきの)の泉に出たとき、清水で手を洗っていたら持っていた曲玉を泉に落としてしまわれました。

 
 現在はこの泉を玉清井(たまきよのい)といい、今も行方の里に伝承地が2か所あります。これら2か所は100m程離れているだけです。そのため、この辺り一帯は木が茂った森のようになっており、もともとつながっていたのではないかとも思われます。 

 

玉清井(たまきよのい)茨城県行方市井上  GoogleMap

  泉の水を手ですくおうとしたところ、身に着けていた曲玉を落としてしまったところ(玉で水を清めたとも)と伝えられています。昔から水が湧き出るところを「永井戸:ながいど」と称していたことが案内に書かれていました。

 
 
 
 
 
 
 
 

玉清水遺蹟 茨城県行方市井上  GoogleMap

 同じ伝承がある別の玉清井遺蹟が100mほど北にあります。
 境内には石碑があり「玉清井遺蹟」「槻野清泉 日本武尊 石根神社祭神 石凝姥命」などの文字が彫られています。ここは農道わきの田の中にあり、石の祠があるだけの小さな社です。

 
 
 

 
 

 

 さらに輿で国を回り、現原(あらはら)の丘で食事を供えられました。そのとき天皇は四方を眺め、従者におおせられました。「輿を降りて歩きながら景色を眺めてみると、高い山低い山々が重なり合い、海の入り江が曲がりくねっている。山の頂上には雲がかかり、谷には霧がかかっている。とても美しく並んでいる。だからこの国の名を、行細(なめくはし)というのがよい」
 行細の地名は行方(なめかた)といっています。
「立雨(たちさめ)ふり、行方の国」といいます。
また、この丘は、周りの野から高く目立っているので、現原(あらはら)と名付けられました。

 

 

梶無川

 この丘を下りて大益河(おおやがわ)に出て、小舟に乗って川を上られたとき、棹梶(さおかじ)が折れてしまいました。そのため、この川を無梶河(かじなしがわ-梶無川)といいます。茨城と行方二郡の境を流れている川です。

  

梶無川 行方市   GoogleMap

 

 無梶河をさらに上って茨城と行方の境まで来ると、鴨が飛び渡るのが見えました。天皇が弓を射ると鴨は地に堕ちました。そこを鴨野(かもの)といいます。土地はやせていて草木も生えてはいません。鴨野の北には、檪(いちい)、柴(くぬぎ)、楓(かえで)、桧(ひのき)などが繁っている深い森があります。そこの枡(ます)の池は高向大夫の時代に掘ったものです。北には香取神社から分祀された社が建っています。近くの山野は土地が肥えていて草木が密生してます。

 

 
 無梶河をさらに上ると鴨が飛んでいくのが見えました。倭武天皇が弓を射ると鴨は地に堕ちました。そこを鴨野(かもの)といいます。
 

鴨の宮 茨城県行方市玉造乙  GoogleMap

 現在宮のある場所は元の位置から移転されて建っています。
 ここは鴨を弓で射落したところと言われています。
 宮の場所が分からず歩き回っていたところ地元の方に出会い教えていただきました。細い道を入ったところに鴨の宮の方を示す案内がありました。聞かなければ見つけることができませんでした。

鴨宮

 
 
 

 
 

 郡より東北へ十五里のところに、当麻(たぎま)の郷があります。
 昔、倭武の天皇が巡行され、この郷を通られました。この時、鳥日子(とりひこと)いう名の佐伯が逆らったので、これを殺しました。屋形野の帳(とばり)仮宮にお越しになりましたが、車の行く道は凸凹でたぎたぎしく、通りにくい悪路であったためここを当麻(たぎま)と名付けられました。土地はやせていますが、紫草が繁っています。また香取と鹿島の二つの社があります。その周りの山野には、檪(いちい)、柞(ははそ)、栗、柴(くぬぎ)などが林をつくっていて、猪、猿、狼が多く住んでいます。

 

香取神宮 千葉県香取市香取1697−1  GoogleMap

 神武天皇18年に創祀されたとされ、祭神は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)です。この神は天孫降臨の前に鹿島神宮の祭神武甕槌神(たけみかづちのかみ)とともに出雲へ派遣され、大国主と国譲りの交渉を行ないました。下総の国一之宮となっています。
 境内にある案内板に香取・鹿島の二神について書かれています。
古伝によればその昔、香取・鹿島の二柱の大神は天照大神の大命を受け、芦原の中つ国を平定し、香取ヶ浦付近に至った。しかし、この地方はなおただよえる国であり、地震が頻発し、人々はいたく恐れていた。これは地中に大きな鯰魚(なまず)が住みつき、荒れさわいでいると言われていた。大神たちは地中に深く石棒をさし込み、鯰魚の頭尾を押さえ地震を鎮めたと伝わっている。略

 
 
 

 

鹿島神宮 茨城県鹿嶋市宮中2306−1  GoogleMap
 祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)です。大国主が国譲りを行う際に交渉役として登場した神です。常陸国一之宮となっています。
 常陸国の中にあり陸奥を監視するかのように本殿が北向きに建っています。

鹿島神宮

 
 
 
 
 

 当麻(たぎま)より南に、芸都(きつ)の里があります。
 昔、寸津比古(きつひこ)寸津比売(きつひめ)といふ二人の住人がいました。寸津比古は天皇が巡幸してきたとき、天皇に逆らって、命に背き、とても無礼なふるまいをしたので、剣で討ち殺されました。寸津比売は、恐れをなして白旗をあげ、道端に伏して天皇を迎えました。天皇はあわれみを示し、その家を罰しませんでした。さらに輿を進めて、小抜野(おぬきの)の仮宮に行かれるときに、寸津比売は姉妹を連れて、雨の日も風の日も、心から尽くして朝も夕もお仕えしました。天皇はそれをお喜びになって愛しみになったことから、この野を宇流波斯(うるはし)の小野というようになりました。
 
 芸都の里の南に田の里があります。息長足日売(おきながたらしひめ)の皇后(神功皇后)の時代に、古都比古(こつひこ)という人が三度韓国(からくに)に派遣されました。その功績により田を賜ったので、この地名となりました。また波須牟(はずむ)の野は、倭武天皇の仮宮を建て、弓筈(ゆはず 弓の上下にある弦をかけるところ)を直したことから名付けられました。この野の北の海辺に香島神社の分社があります。土地はやせていて、檪(いちい)、柞(ははそ)、楡(にれ)、竹などがところどころに生えています。

 
 

 

 田の里より南の方に相鹿(あうか)大生(おおふ)の里があります。
 昔、倭武天皇が相鹿の丘前(おかさき)の宮においでになったときに、膳炊屋舎(おほひどの 炊事場)を海辺に建て、小舟を並べてつなぎ橋にして行宮(あんぐう)に通われました。そのため、大炊(おおい)から大生(おおふ:おおう)と名付けました。また、倭武天皇の后の大橘比売命(おおたちばなひめのみこと)が、大和からお越しになって、この地で天皇にお会いになったことから、安布賀(あうか)または遇鹿(あふか)の村といいます。
 密筑(みつき)の里から東北へ三十里のところに助川の駅があります。以前はといっていました。国宰(くにのみこともち)久米大夫の時に、川で鮭をとったので、助川というようになりました。(この土地では鮭の親を「すけ」といっています)

 

大生(おおう)神社  茨城県潮来市大生814 GoogleMap
  大生神社は健御雷之男神(たけみかづちのおかみ)を祭神とします。鹿島の本宮と言われ大和国からの移住の際に多氏が氏神として祀ったのが始まりと言われています。
 
 
 

 
 

雷神社 茨城県行方市岡  GoogleMap

 祭神として別雷命(わけいかずちのみこと)を祀っています。『常陸国風土記』には倭武天皇が相鹿(あうか)の丘前(おかさき)の宮にいた時、浦浜に膳炊屋舎(おおいとの)を建て橋を造って行き来したと書かれています。この膳炊屋舎で倭武天皇の食事を作っていた時、雷鳴が鳴り別雷命が椿の大樹に降りてきました。別雷命が村人に声をかけたのを喜び社殿を建立しました。社殿傍の祠は丘前宮と呼ばれていました。その後、丘前宮道鏡大明神としました。
 

 
 
 

 

  

 毎年七月に、舟を造って津宮(海神の社)に奉納しています。それは、
昔、倭武天皇の時代に、天の大神が、夢の中に現れ、中臣臣狭山命(なかとみのおみさやまのみこと)に「舟を奉納しなさい」とおっしゃったことからです。狭山命は、「つつしんで命を承りました。さからうことはございません」と答えました。大神が夜明けに、「汝の舟を海の上に置いた」とおっしゃったので狭山の命が見ると、舟は丘の上にありました。大神は、「汝の舟は丘の上に置いた」とおっしゃったので、また狭山命が見てみると、今度は舟が海の上にありました。こんな事が何度もあり、狭山命は恐れかしこみ、新たに長さ二丈余り(約6m)の舟を三隻造らせて献上しました。

 
 

 

 役所の北三十里のところに、白鳥の里があります。その南にある広いところを角折(つのおれ)といいます。
 昔、大蛇がいて、東の海に行こうとして浜に穴を掘って通ろうとしたけれど、蛇の角が折れてしまいました。そこから名付けられました。また別の言い伝えでは、倭武天皇がこの浜辺にお泊りになったとき、お食事をお出しするのに水がありませんでした。そこで鹿の角で地面を掘ってみたところ、角が折れてしまいました。このことから名付けられました。

 

角折付近鹿島浦 
茨城県鹿嶋市角折  GoogleMap

 
 
 

  

 昔、役所の南の方近くに小さな丘があり、その形が鯨に似ていたので、倭武天皇が久慈(くじ)と名付けられました。

久慈川 茨城県日立市 福島県東白川郡 
 
 
  
 

 
 

 道前(みちのくち)の里に飽田(あきた)の村があります。
昔、倭武天皇が東国を巡行された時に、この野でお泊りになられました。ここの村人が言うところでは、野にはたくさんの鹿が群れ、角は枯れた葦の原のように見え、その息は朝霧の立つようです。海には八尺(約2.4m)の鰒(あわび 鮑の意味とフグという説もある)がいて、いろんな珍味や、魚がいます。そこで天皇は野に出かけ、また橘皇后は海に出られて、野と海で別々に獲物の取り合いをすることになりました。野では何も獲れませんでした、海は大漁でおいしいものがたくさん獲れました。狩りや漁が終わって、天皇が「野では何も得られなかったが、海のものは飽きるほど獲れた」と言われたので、飽田(あきた)の村と名づけられました。
 
  国宰(くにのみこともち)の川原宿禰黒麻呂(かわはらのすくねくろまろ)の時、海辺の岩壁に観世音菩薩の像を彫りました。それで仏浜(ほとけはま)といいます。
 役所から南へ三十里のところに、藻嶋(めしま)の駅があります。東南にある浜には碁石があります。常陸国では最も美しい石です。
昔、倭武天皇が舟で島をご覧になられた時「いろんな種類の海藻が生えている」と言われたので、藻嶋(めしま)という名が付きました。

 

 

 

常陸国の伝承地 

  日本武尊が常陸国に滞在したのは、常陸国内の神社の伝承により、往路復路で2度あるのかもしれないと思われます。例えば、次の神社については、東征帰路の伝承がありますが、陸奥国に向かう途中にも立ち寄っていると考えています。
 

吉田神社 茨城県水戸市宮内町  GoogleMap

 朝日山に鎮座する神社で日本武尊を祀っています。全国の日本武尊を主祭神とする神社の中では最も古く由緒正しい神社としています。
 日本武尊は天皇の命により全国のまつろわぬ者たちを平定してきましたが、最後に東夷の平定を成し遂げました。そしてその帰路、御船を藤蔦でつなぎ、旭山台地に立ち寄って兵を休息させました。朝日山の下にある地名が「藤柄」と呼ばれていたのはこの所以と言われています。
 東征帰路の伝承がありますが、他の常陸国の伝承地からは離れています。むしろ、東征往路の立ち寄り地と思われる東征神社に近いため、那珂川を渡る前、往路の立ち寄り地ではなかったかと考えています。 

 
 
 
 

 朝日山(別名三角山)で日本武尊が御旗を朝日に輝かせて四方を展望したことから「御祭神御遺跡」として縄を張り聖域として立ち入りを禁じています。

 
 
 
 
 

 

熱田神社 茨城県潮来市築地193  GoogleMap

 日本武尊が東征の際ここに立ち寄り、東の鹿島、南の香取、西はるかに筑波山、北に北浦に接したこの景勝地にて戦勝祭を行い、武運長久を祈願されたと伝わっています。特に日本武尊の命に従い東征に功績のあった三十番神(さんじゅうばんしん:30の神々)を褒め称えられました。村人はその跡地に社殿を建立し日本武尊と三十番神を祀りました。
 この社伝により帰路の立ち寄り地と考えられます。これにより、日本武尊は東征の帰路、現在の北浦から霞ケ浦周辺を回ったと推測しています。

 
 
 

 
  

三昧塚古墳  茨城県行方市沖洲  GoogleMap

 全長85m 高さ6m、5世紀後半に造られた前方後円墳です。古墳の形から大和朝廷による支配が済んでいることがわかります。

 
 
  

 
 
 
 
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