日本武尊の足跡を追いかける 

shizuoka4556.jpg shizuoka5109.jpg shizuoka5082.jpg shizuoka5632.jpg shizuoka5472.jpg shizuoka5455.jpg shizuoka4582.jpg shizuoka4622.jpg shizuoka4758.jpg shizuoka4783.jpg shizuoka4582.jpg shizuoka4622.jpg shizuoka4758.jpg shizuoka4783.jpg shizuoka4803.jpg shizuoka4898.jpg shizuoka5060.jpg shizuoka5069.jpg shizuoka4551.jpg shizuoka5508.jpg shizuoka5553.jpg shizuoka5317.jpg shizuoka5307.jpg shizuoka5268.jpg shizuoka5242.jpg shizuoka5239.jpg shizuoka5223.jpg shizuoka5697.jpg shizuoka5689.jpg shizuoka5696.jpg shizuoka5562.jpg shizuoka4530.jpg shizuoka4504.jpg

 日本武尊の東征 Ⅲ 駿河 火難の地

 
 海路で駿河に入った日本武尊は土地の首領たちの甘い誘いに乗りました。ひと時の平穏な時を弟橘媛と一緒に過ごそうと思ったのかもしれません。狩りをしようと首領たちの言われるまま野に入りました。しかし、状況は一変します。瞬く間に日本武尊らは燃え盛る火に囲まれてしまいました。火の海の中で愛する妻を守り、脱出策を考えました。

東征 駿河での戦い

 
 これまでの神社の伝承を整理すると、景行天皇40年10月に奈良を出発した日本武尊一行は尾張国を経てその年の内に駿河に到着しています。3か月の間に尾張で東征の準備をし、三河路では小さな戦いをしながら山間部を抜け、浜名湖南端に到着しました。そして、ここで全軍の態勢を整えて再出発します。駿河に入ると野火の難に遭いますが、草薙剣に助けられ、相模を抜けて走水に至りました。『日本書紀』『古事記』は多くの出来事を省略して書いているのだと思います。そこで、走水にいつ到着したかはわかりませんし、野火の難から走水までの行程もわかりませんが、駿河路にある神社の伝承をもとにして省略された行程を整理しながら推測してみます。
 
 この章は次の順で紹介します。

 1 日本武尊の駿河の全行程(記紀の記述含む)
 2 野火の難は誰の仕業か
 3 野火の難はどこで起こったか
 4 日本武尊を救った草薙剣

 
『日本書紀』 

景行天皇40年
 この年のうちに、日本武尊は初めて駿河(静岡県)に到着しました。土地の長が日本武尊に従ったふりをして狩りに誘いました。
「ここは広い野原です。ここには鹿がたくさんいて、吐く息が朝霧のようで、しかもその足は林の茂みの様にしなやかです。さあ狩りをしましょう。」
 日本武尊はこの者の言うことを信じ、野の中に入って行きました。賊らは日本武尊を殺そうと思っていたので、日本武尊の入った野に火をつけて焼きました。日本武尊はだまされたことに気づき、すぐに持っていた火打ち石で火をつけ、迎え火をつくることで難を免れることができました。
*他の書物によると、日本武尊が身に着けていた叢雲(むらくも)剣が自然に抜けて、尊の周りの草を薙ぎ払ったので難を免れることができたと書かれています。よってこの剣を「草薙剣」と呼ぶようになりました。
 日本武尊は「騙されてしまった。」と言いました。その土地の賊たちは捕らえられ焼き殺されました。それでここを焼津(やきづ・やいづ)と言います。

 

御前崎通過 

 静岡県湖西市を出航した日本武尊は、静岡県の最南端に位置する御前崎を左に見ながら大井川河口の地に至りました。古代から、御前崎周辺の遠州灘は海流や岩礁により座礁することがあり、航海の難所でした。日本武尊もここを大変苦労して航行したと思われます。
御前崎灯台 静岡県御前崎市御前崎1581 GoogleMap
 明治7年(1874年)英国人リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計で造られ完成しました。

 
 
 
 

大井川の河口 島田市

 大井川は南アルプスを水源とし、静岡県を北から南に流れる一級河川です。水量が豊富なことでも知られています。地図を見ても分かりますが、上流域から中流域には蛇行しているところが多く見られます。日本武尊はこの川の上流部に進行するため往復で舟を利用したと思われます。
 大井川は「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と言われたように、東海道の難所でした。橋はなく、渡し船も禁止とされていたため、この川を渡るには「川越し」という馬や人によって渡してもらうという方式でした。流れが速いと渡ることができないため、現在の島田市の金谷(かなや)と島田に川会所が置かれ、宿場町となって賑わっていました。明治時代になって蓬莱橋が架けられました。この橋は全長約900m、幅2.7mで木造の歩道橋としては世界一の長さです。近くには牧ノ原台地があり、お茶の生産が盛んです。

大井川 蓬莱橋
 
 
 
蓬莱橋 牧ノ原台地茶畑
 
 
 
 
 大井川に沿って鉄道の線路が敷かれ、現在は観光SLが金谷と千頭間を走っています。
 
 
 

 
 

大井川上流に足跡がある・・・ 

  駿河に入る前、山間部に賊がいるという情報が入り、先にその征伐に向かったようです。SLの終点千頭駅の近くに日本武尊の足跡がありました。
 一行は川を利用して大井川を上ったのではないかと考えます。日本武尊の従者だけが賊退治に行ったとも考えられなくもないのですが、敬満大井神社には日本武尊の足跡があります。
 
 
 

敬満大井神社 静岡県榛原郡川根本町千頭  GoogleMap

 日本武尊が伊弉冉尊と天児屋根命を勧進したと伝わっています。山間部の川根町千頭に、賊がいて騒いでいたので退治したと言うのです。後に日本武尊と瀬織津姫命を祀る神社としました。

 
 
 
 
 
 
 
 

 
 駿河山間部から再び大井川を下り、海側に至った後の駿河路の行程を考えてみます。
 
 

 一つの神社を中心地と決め、その周辺史跡を併せて一つのブロックとして囲んだとします。地図上にこのブロックをサークルで示し、それらを西から東へ順に線でつないでみました。それを焼津から走水までの地図で判断して日本武尊の行程を推測しました。

 
 

1 日本武尊の駿河の全行程

  駿河の山間部から海側に戻ってからの日本武尊の行動は次のようになると考えています。
 

 駿河国(清水)に到着 -船を着岸し上陸
 
 野火の難(火難の地) 
 
 賊の征伐
  
 富士山遥拝
 
 箱根(足柄峠)越え
 
 相模(走水)に到着

 
 

駿河に入った船団の到着地 

 日本武尊を乗せた船が着岸したのは駿河湾沿いの海岸でした。焼津という地名の伝承を重視して考えると、焼津神社の「北御旅所」があるところが当時は海に面しており、昔から伝えられてきた通り、ここが着岸地だったと思われます。
 
 
 

北御旅所(焼津神社) 静岡県焼津市北浜通  GoogleMap

 毎年、日本武尊の上陸に因んだ神事が行われています。現在は埋め立てられていますが、この辺りまでが海岸であったようです。

 
 
 

 

 

御沓脱遺跡 静岡県焼津市焼津  GoogleMap

 日本武尊が上陸地付近で休息した跡地です。

 
 
 
 
 

焼津というところ

 当時この辺りは海に面して広大な沼地があったと焼津神社の社伝に書かれています。焼津神社は入り江明神とも呼ばれ、付近は沼に面して背の高い萱(かや)や葦(あし:別名ヨシ)があたり一面に茂っていたところと言われています。
 
 日本武尊を騙して葦原の奥に誘い込んだ賊(『古事記』では国造)は葦に火を放って焼き殺そうとしました。
 『古事記』では火難に遭ったのは焼津神社のある駿河のことではなく、もっと東方の相武(さがむ:相模)としています。相武は駿河の東に位置するため、駿河の焼津は火難の地ではなくなります。しかし、この出来事があった時代には「駿河」という国名・地名がなかったかもしれません。当時、静岡県東部と神奈川県一帯は広く相武と呼ばれていたとされています。すると焼津は『古事記』では相武に属することになり、火難の地であり得るのです。『日本書紀』の編纂された時は相武と駿河は区別されるようになったのかもしれません。
 
 景行天皇40年10月に都を出発した日本武尊がこの地に着いたのはこの年の内です。晩秋から冬にかけてのことだと考えられます。夏の間に大きく育った葦はこのころには枯れています。人の背を超えて伸びた葦が今は枯れ、立ち枯れしていく季節です。夏の緑の葦とちがい冬の葦は乾燥していて燃えやすくなっています。また、枯れ野を構成する植物は葦だけではありません。人を隠してしまうほどに大きく育ったススキも辺り一面に生えていたと思われます。その中に入っていけば、進む方向も分からなくなり、脱出が困難となってしまいます。日本武尊と弟橘媛はどうして危険な方へと進んだのでしょうか。案内をした賊(この時はまだ天皇に従順な者たちと信じています。)の誘いは余程面白味のあるものだったのでしょうか。礼儀正しく低姿勢で道案内をしていた賊もいつの間にか姿を消してしまいました。そして、事態が急変します。少し高台から見下ろせば、葦やススキの動きで二人がどこにいるのかが分かります。奥に入り込んだのを見計らって見張り役が合図し、二人を取り囲むように至る所から一斉に火をつけたのです。
 
 『古事記』

 相武(相模)の国で、国造に荒ぶる神がいると欺かれた倭建命は、野中で火攻めに遭いました。そこで叔母から貰った袋を開けると火打石が入っていたので、草那芸剣で草を刈り掃い、迎え火を点けて逆に敵を焼き尽くしました。それで、そこを焼遣(やきづ=焼津)といいます。

 
 火難を駿河の出来事と明記している『日本書紀』も出来事の大筋は『古事記』とほぼ同じで、焼津の地名の起源を示しています。ただ、『日本書紀』では火打石で迎え火を付けて難を逃れたとしており、火打石を叔母に貰ったという記述はありません。また、剣で草を掃う記述は別説として、天叢雲剣がひとりでに抜けて草を薙ぎ払ったと書かれています。これが天叢雲剣が草薙剣と名付けられた所以になっています。
 

滋賀県五個荘の建部神社拝殿に掲げられている額

 
 

国造らの誘いと野火の難

 

  海路で駿河に入った日本武尊は焼津の海岸にあった現在の北の御旅所付近に着岸し、上陸しました。ここで出迎えた首長たちは長旅の疲れを癒すよう勧めます。しばらく休憩したところで弟橘媛とともに狩りに出かけてはと誘いました。背丈以上に伸びた葦原を奥に進むと首長らの姿が見えなくなり、やがて炎に取り囲まれていることに気づきました。野火の難は焼津神社付近の広大な葦原でのことではないだろうか。

 

 

焼津神社 静岡県焼津市焼津2丁目7番2号  GoogleMap

 御祭神は日本武尊で、東征の従者である吉備武彦命、大伴武日連命、七束脛命らも祀られています。古代は海に近く、入江大明神とも呼ばれていたようです。社伝では、日本武尊の東征のおり、相模国に到着した倭建命は国造に騙されて野原に火をつけられましたが、持っていた剣と火打ち石で難を逃れました。草を焼き払ったところは「焼津」と言われています。日本武尊は水石と火石の2個の石を投げたところ、1つは熱田神宮、もう1個は焼津神社に落ちたといわれています。

 
 
 
 
 
 
 
 
     

 

 

賊の征伐

 

 騙されたことを知った日本武尊の怒りは相当なものでした。草薙剣に助けられた後、騙した首長らを草薙神社付近まで追ってきました。ここで賊らを征伐し、賊ら一族の首は土に埋めら塚が造られました。

 

野火の難の地は草薙神社周辺か

 ここを野火の難の地とする伝承があります。その根拠として、草薙神社が景行天皇が創建した神社だからとしています。景行天皇は日本武尊の東征後に日本武尊にゆかりの地を巡っていました。その時建立した社が草薙神社です。つまり、日本武尊は確かにここにいたことになります。
 草薙神社の伝承では火攻めをされた地は近くの谷としています。抵抗した賊らを殺して埋めたという伝承地も草薙神社近くにあります。そこが首塚稲荷神社と言われています。言い伝えられているような火攻めされた近くの谷とはどこだったのでしょう。現在はわかっていません。
 火難の地がどこであったのかは後で諸説を整理したいと思います。
 

草薙(くさなぎ)神社 静岡県清水市草薙349  GoogleMap

 御祭神は日本武尊です。日本武尊が東征に向かう途中、賊が野に火をつけて日本武尊を焼き殺そうとしました。そこで、尊は倭姫命より授かった剣を抜いて「遠かたや、しけきかもと、をやい鎌の」と鎌で打ち払うようなしぐさで剣を振り、草を薙ぎ払って難を逃れました。このときの剣を「草薙の剣」 と呼んでいます。そして、火をつけた野は「草薙」とよばれるようになりました。後に景行天皇がこの地を訪れ、尊を偲んで社を建立しました。そして、日本武尊を祀り、御霊代として草薙の剣を奉納しました。その後、天武天皇の時代に草薙の剣 は熱田神宮で祀られるようになりました。草薙神社は元は静岡鉄道の草薙駅南にありました(現在古宮があり、一帯を天皇原と呼んでいました)が平安時代に現在地に遷座されています。

 
 
 
 

 

 
 草薙神社周辺には日本武尊に関連する地名等があるようです。神社境内にある案内に従って付近を散策しましたが、立て札等はなく、その場所を確かめることはできませんでした。
 
 
 
 

「当社は式内延喜式神名帳に「駿河国有度郡三座並小云々草薙神社」と記載されている。御祭神は景行天皇第二子皇子日本武尊を御祀り申し上げて鎮座してあります。国史社伝によれば、尊は東国の蝦夷が、叛いたので、之を平定する為、吾嬬国に赴く途中、このあたりで逆賊起こり、原野に火を放って尊を焼き殺そうとしたので尊は出発の折、伊勢神宮に参拝し、倭姫命より戴いた佩用の剣を抜いて「遠かたや、しけきかもと、をやい鎌の」と鎌で打ち払う様に唱へ、祓ひて剣を振り、あたりの草をことごとく薙ぎ払った処で手打石により日をつけた。その火は逆に逆賊の方へ烟りなびいて、尊は無事にこの難を切り抜けられました。その後、佩用されていた天叢雲の剣を草薙の剣と名称を変更になり、尚、尊を焼き殺そうとした処を草薙と言はれる様になりと、語り伝へられている。その後景行天皇が日本尊命の勲功の地を尋ねようと、53年8月に天皇は郡郷に詔して曰く「冀くば、日本尊命の征定された国郡を巡視する。」そこで天皇は直ちに出発せられ、先ず伊勢に行幸され、次いで東国に向かはれ9月20日に当地に御着になり尊の奮斗の後を封じて御親しく一社を建立し、日本武尊を奉祀し、御霊代として、草薙の剣を奉納されました。景行天皇53年9月20日(昭和60年より1863年前)依って当月当日(9月20日を以て例祭日と定めて今日に及んでおります。その後草薙の剣は第四十六代天武天皇の朱雀元年に勅命により現在の熱田神宮に奉祀しされました。」
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)より

 
   
草薙神社 古宮(ふるみや) 静岡県静岡市清水区草薙  GoogleMap
 景行天皇が日本武尊の戦跡地を訪れて社を建立しました。草薙神社の元宮の場所には現在も石祠が建てられ草薙神社の古宮として祀られています。
 この場所はマンションの建物の北側にあり、マンション南西角に案内板が立ってられています。フェンス沿いに入っていくと石祠が見えます。
 
 
 
  

首塚稲荷神社(くびつかいなりじんじゃ)静岡県静岡市清水区草薙1124  GoogleMap

 この地で戦いがあり戦死者の首を埋め塚を造ったとする伝承があります。北側の川は血流川と呼ばれています。

 
 
 
 

 

天皇原公園付近 静岡県静岡市清水区草薙 GoogleMap

 現在の草薙神社への参道沿いに「天皇原」と名がついた公園があります。
日本武尊が駿河の賊と戦い、火攻めに遭いながらも勝利した地を景行天皇が訪れて社を建立しました。この辺りは比較的平らな土地で、草薙神社に向かうと坂を上っていくことになります。現在の地名は草薙ですが、昔の地名が公園の名として残し ていました。

 
 
 
 
瓢箪塚(ひょうたんつか)古墳(西原1号墳) 静岡県静岡市清水区草薙  GoogleMap
 全長約40mの前方後円墳で、6世紀初めの築造と言われています。この周辺にはこのような古墳が数基あったようですが、宅地開発のため消えてしまいました。この一帯は古くからここを治めていた一族の墓が点在していたようです。この古墳は前方後円墳なので大和の支配や影響を受けて築かれています。駿河の賊を退治した後、この地を治めた者の墓と思われます。東征の後副将軍であった吉備武彦の子孫の意加部彦(おかべひこ)が庵原(いおはら)の国造となって治めたところでもあるため、被葬者との関係があるものと考えられます。
 
 
 
  

 
 

 野火の難のあと

 
  野火の難の地から走水まではどのように進んだかについて、次の3つの視点から推測してみます。
 
 地図上の位置から判断
  駿河の西で野火の難が起こり、そこから東へ進んだと考えます。
 諏訪神社の社伝を読む
  社伝に日本武尊の大まかな行程が書かれているので、それに従って検討しました。
 走水神社の社伝を読む
  社伝に行程が書かれているのでたどってみました。
 

廣野神社  静岡県静岡市駿河区国吉田1056  GoogleMap

 祭神は素盞烏尊です。
 境内に入ると樹齢約500年と言われる御神木の大樟が目に入ります。ここに日本武尊が東征の折、今後の戦勝を祈願して素盞烏尊を祀りました。

 
 
 

 

 

 
 賊を征伐した日本武尊は日本平の頂に立ち、富士山を背に広がる駿河の地やこれから向かおうとする東国の方を見わたしました。
 

日本平 静岡県静岡市駿河区・清水区境界  GoogleMap

 頂上付近に石碑があり「尊この地に登りて國見し給う」と彫られています。この石碑は昭和43年建立されました。また、駐車場には日本武尊の銅像が立っています。
 草薙神社から日本平へはウォーキングコースが整備されており、歩いて行くことができます。

 
 
 
 
 

 

御穂神社(みほじんじゃ)・三保大明神 静岡県静岡市清水区三保1073  GoogleMap

 三保の松原に伝わる「羽衣伝説」に関係する神社です。世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の1つになっています。
 祭神は大己貴命(おおあなむちのみこと)で 別名は三穂津彦命(みほつひこのみこと)、三穂津姫命(みほつひめのみこと)です。創建は不詳で『駿河雑志』には「日本武尊が勅により官幣を奉じ社領を寄進した」と書かれているようです。(wikipediaより)
 

 
 
  

 

 

全軍の体勢を整える 

 野火の難後の後処理とこれからの進軍に際し準備を行いました。副将軍となっていた吉備武彦や大伴武日らとともに作戦会議を開きました。

 

矢倉神社 静岡県静岡市清水区矢倉町5  GoogleMap

 祭神は日本武尊です。
 久佐奈岐神社の近く、日本武尊が布陣した所に神社を建てました。ここには多くの兵がいたとされ、武器を置いたところでもありました。東征後にこの地を治めた吉備武彦の子で庵原国造となった意加部彦 (おかべひこ)が祭祀をとりおこなったと伝えられています。
 ここは日本武尊の滞在地でもあり、東征のための軍や武器を整えたとも考えられます。

 
 
 
 

「当神社の創建は仲哀天皇の御代、庵原国意加部彦が日本武尊、景行天皇をお申し上げました。景行天皇第二皇子日本武尊が東国の蝦夷が叛いたので、御東征の際、当地方一帯に軍営を布かれ給ひ、此の地に兵站部や武庫を置かれた遺跡と伝へられています。村上天皇の天暦2年に藤原匡房郷は神武天皇を合祀奉りました。振って天正18年豊臣秀吉小田原出兵の砌、太刀、玉石を献じたとも伝えられています。駿河国諸郡神命帳に従五位上矢倉地祇とあり古社であります。昭和9年神武天皇御東遷2600年祭に当たって宮崎県知事より幣帛料の奉納があり、同じく昭和13年紀元二千六百年祭には静岡県知事の幣帛供進使参向がありました。尚当社相殿の事代主神は古くより信徒の区域が広く、又境内社稲荷社は開運の神として特殊の多くの信仰者があります。」
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)より
 

久佐奈岐神社(旧東久佐奈岐神社) 静岡県静岡市清水区山切101 GoogleMap

 祭神は日本武尊です。ほかに弟橘姫命、吉備武彦命、大伴武日連命、膳夫七掬胸脛命らが祀られています。また、東征に従った多くの従者を九万八千霊社に祀っています。
 この神社がある地区は当時廬原(いおはら)国と呼ばれていました。日本武尊は東征のおりここに本宮を設けました。東征後に従者の一人吉備武彦がこの地を治めることとなり、日本武尊を祀る社殿を築きました。もとは「東久佐奈岐神社」と呼んでいました。

 
 
  
 

久佐奈岐神社 九万八千霊社  GoogleMap

 久佐奈岐神社の境内には東征で戦った多くの兵の霊も祀られています。

 
 
 

            

 
豊由氣神社・豊由気神社(とよゆけじんじゃ)静岡市清水区庵原町2894 GoogleMap

 祭神は豊受姫命で木花開耶姫命も祀られています。日本武尊が東征のときに豊受大神を祀ったのが始まりです。

 
 
 
 
 
 
 
興津川(おきつがわ)静岡県静岡市清水区
 

薩埵(さった)峠越えの道

 清水から由比へ行く高速道は海に突き出ているように造られています。駿河の海は荒れ、海岸に沿って行くのは危険を伴います。そこで日本武尊は薩(さっ)た峠越えの道を選択しました。

 
 
 
 
東名高速道路及び由比PA(下り)からの薩埵(さった)山
由比PAから峠は見えていない
 

日本武尊遺跡・沓掛明神社と井戸跡 静岡市清水区興津井上町  GoogleMap

 薩た峠に西から登っていくと、峠道入口の道路脇左側に石祠があるのがわかります。この狭い道を日本武尊は通過したと伝えられています。 

 
 

 

日本武尊遺跡・駒の爪址 静岡市清水区興津井上町  GoogleMap

 さらに登ると、道路わきに見落としてしまいそうな小さな石柱が立っているのがわかります。

 

 

薩埵(さった)峠山之神遺跡・鞍佐里(くらさり)神社旧社地 静岡市清水区興津  GoogleMap

 薩埵峠からは駿河湾と富士山を見ることができます。現在は海岸線に沿って国道や東名高速道路が走っていますが、かつては荒波があたる断崖地だったと思われます。そこを通ることはできないため、薩埵峠を越える道を通ったと思われます。峠には山之神遺跡がありますが、この地は鞍佐里神社の元宮です。

 
 
 

鞍佐里神社 静岡県静岡市清水区由比西倉沢313  GoogleMap

 鞍佐里神社は現在は薩埵峠を北に下りた由比に遷座されています。
 祭神は日本武尊です。神社名は「鞍去り」が元になっており、この地で野火の難に遭った日本武尊は「自ら鞍下に居して神明に念ず、その鞍、敵の火矢によって焼け破れ尽くした。」と伝えられていることからついた名です。

 
 
 

 

東海道由比・由比港 静岡市清水区由比今宿字浜  GoogleMap

 薩埵峠を下って海岸に出たところが由比です。由比は江戸時代の東海道の難所でもあり、当時は宿場町として賑わっていました。現在の由比港は桜エビやシラスの水揚げが盛んで、漁港の食堂ではその時期になると行列ができるほどです。

 
 
  
 
 

富士山遥拝

 日本武尊は東征中幾たびか戦勝祈願をしています。日本武尊は現人神(天皇)の御子とはいえ人間ですから常に戦いに勝利するとは限りません。強い敵を相手にするときは戦力以上に神頼みも必要だったのでしょう。これまで伊勢国の天照大神に祈ることが多かったのですが、霊峰富士を前に特別な思いを抱いたのでしょう。山麓より富士を見上げ、戦勝を強く祈りました。
 富士山の5合目に日本武尊を祀る神社がありますが、そこまで登ったという言い伝えはありません。

 

日本武尊神社 富士山5合目 吉田口 山梨県富士吉田市上吉田小御岳下  GoogleMap

 富士スバルラインを通り富士山の5合目までは車でも行くことができます。そのため多くの観光客でにぎわっていますが、小御岳(こみたけ)神社境内にこの神社があります。

 
 

 
 

富士山本宮浅間大社 静岡県富士宮市宮町1-1  GoogleMap

 祭神は木花之佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)です。富士山をご神体として祀っています。
 第7代孝霊天皇の時代に富士山が大噴火しました。そのため周辺の土地が荒れ果ててしまいました。第11代垂仁天皇の時代に山麓(元宮の地)に浅間大神を祀って山を鎮めたことが始まりとされています。(『富士本宮浅間社記』) 日本武尊は駿河で野火の難に遭いますが富士浅間大神に祈ったところ難を逃れることができました。そのため、元宮の地に富士浅間大神を祀りました。
 その後鎌倉時代には源頼朝、戦国時代以降は武田信玄・勝頼、徳川家康など名だたる武将の熱い信仰を受けました。日本武尊も東征の際に富士の霊山を仰いだと言われています。

 
 
 
 
 
 
 
 

「第七代、孝霊天皇の御代富士山が噴火し鳴動常なく人民恐れて逃散し年久しく国中が荒れ果てたので第十一代垂仁天皇は其の3年に浅間大神を山足の地に祭り山霊を鎮められた。これを当浅間大社の起源とする。ついで第十二代景行天皇の御代日本武尊が東夷御征伐の時駿河国に於て賊徒の野火に遇われたが富士浅間大神を祈念して其の災をのがれた給い、その賊を征服するや山宮の地(大宮の北方約6キロ)に於て厚く大神を祭られた。其の後第五十一代平城天皇の大同元年坂上田村麿勅を奉じて現在の大宮の地に壮大な社殿を営み山宮より遷し鎮め奉った。爾来1100余年全国1300余に及ぶ浅間神社の総本社として全国的崇敬をあつめる東海の名社となっている。古来朝廷の御尊崇極めて厚く延喜の制には名神大社に列し、駿河国一宮として勅使の奉幣神領の御寄進等にあずかり、武家時代に入るや源頼朝は神領を寄進し、北条義時・足利尊氏同義持等何れも社殿を修営し、武田信玄・同勝頼父子は諸種の宝物を献上し社殿を奉建し、豊臣秀吉も亦神領を寄進した。慶長9年徳川家康は戦国擾乱の鎮静と将軍宣下の奉賽のため本殿・拝殿・楼門その他を奉建し更に同11年には富士山八合目以上を当社へ寄進した。爾来徳川氏は本社を崇敬すること極めて深く、家光は社領を献じ家綱・綱吉・家治・家斉・家定・家茂等も夫々祈祷料・修理料を寄進した。又室町時代に始まった富士登拝は江戸時代に入っていよいよ殷盛を極め以来今日に至っているが、本宮所在の大宮は富士山表口と称せられ関西方面から来る道者(どうじゃ)の登山口たることは勿論、特に本宮を崇敬する関東、東北の道者も此の道を選び、又甲斐、信濃より来る道者も少なくなかった。彼等は社人中特定の道者坊に着いた後本宮に参詣し、更に境内の湧玉池にて斎戒沐浴して登山するのを習いとした。明治に及んでは其の4年5月14日国幣中社に、同29年7月8日官幣大社に列せられた。」
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)より
 

山宮浅間神社 山梨県富士宮市山宮740  GoogleMap

 祭神は浅間大神と木花之佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)です。
 富士山本宮浅間大社の祭神である富士神が最初に祀られたところがここ、山宮浅間神社で富士山本宮浅間大社の元宮です。806年に坂上田村麻呂が元宮の地から現在の富士山本宮浅間大社のある地に遷宮したと言われています。
 日本武尊は駿河の賊との戦いで富士の大神に戦勝祈願をした結果勝利したとされ、元宮の地に磐境(いわさか)を設け浅間大神を祀りました。祭神が鉾に宿って山宮に向かったことから参道には鉾を置くための鉾立石が2個あります。

 
 
 

 昔から境内には社殿がありませんでした。かつてここに社殿を建てようということになりました。そこで村人たちは富士山麓から木を伐採し、ここに本殿を建てることにしました。棟上げ式が終わりお祝いをした日の夜の事、大風が本殿を倒してしまいました。村人たちはあきらめず、再び本殿を建てようとしましたが、棟上げ式の夜にまた大風で吹き倒されてしまいました。その後も何度か建てようとしましたが、その度に大風が吹いて倒されてしまいました。このようなことが続くのでこれは本殿を造ろうとすると祟りがあるとされ、現在も本殿のない神社となっています。
 ここは富士山の遥拝所となっています。富士山を拝む方向に岩で作った祭壇があり、周囲を玉垣で囲っています。中に入ることはできません。

 
 
 
 

 

 

 

 

伊豆半島北部通過

 地図上の伝承地を線でつないでみました。伊豆の北部を東進し三浦半島に向かったと推測されます。
 

多比神社(たびじんじゃ) 静岡県沼津市多比135  GoogleMap

 祭神は日本武尊、蛭子神(ひるこのかみ)です。
 創建年代は不明ですが、日本武尊の通過地あるいは滞在地と考えてもいいかもしれません。

 
 
 

 
 

高尾山古墳 静岡県沼津市東熊堂(くまんどう)北方  GoogleMap

 長さ約62mの前方後方墳で邪馬台国と同時代の3世紀に築造された東日本では最古級の古墳ですが、残念ながら一部破損しています。かつて駿河一帯を支配する勢力の首長墓と考えられます。日本武尊が戦った相手はこの古墳の被葬者の子孫ではなかったかとも推測されます。この古墳がある場所は道路建設予定地となっており、調査中のようですが、このままでは消滅してしまうかもしれません。

 
 
 

 
 

鷲頭神社(御嶽社)静岡県沼津市大平  GoogleMap

 祭神は高龗神(たかおかみのかみ)、天穂日命(あめのほひのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)、日本武尊です。
 1469年に創建された神社で五穀豊穣と豊漁、海上安全の守護神として祀られ、1481年に鷲頭山頂へ神地を造成して遷宮されました。現在は大平天満山に神社が移されています。
 近隣の神社が合祀されているようで、日本武尊は御嶽社に祀られていました。御嶽社の創建年代やもとの場所は不明ですが、通過地と考えてもよいかもしれません。

 
 
 

 

 

劒刀石床別命神社(つるぎたちいわとこわけのみことじんじゃ) 静岡県三島市谷田293  GoogleMap

劒刀石床別命及び日本武尊を祭神としています。

 
 
 

 

来宮(きのみや)神社 静岡県熱海市西山町43-1  GoogleMap

 御祭神は大己貴命 五十猛命 日本武尊です。社伝では日本武尊が東征のとき箱根からここに来たと伝わっています。地図上で推測すると箱根から来たとは考えにくく、ここでは次に箱根に向かったとしました。

 
 
 
「古くから来宮大明神と称し、熱海郷の地主の神であって来宮の地に鎮座し、福の神・縁起の神として古くから信仰され祭典は、左の三柱である。日大已貴命は素盞嗚命の御子であって又の名を、大国主命、俗に「ダイコク様」と云われ古代出雲の神々が海、山を渡られて伊豆地方に進出されたときに、此の熱海の里が海、山に臨み、温泉に恵まれ風光明美にして生活条件の整っていることを愛し給い此処に住居を定めた時祀られたと伝えられています。月五十猛命は素盞嗚尊の御子であって、尊と共に朝鮮に渡られ、樹種を持ち帰り日本国土に播種した神であります。当社へは和銅3年6月にまつられました。今から凡そ1300年前和銅3年6月15日に熱海の海へ漁夫が網をおろしていたところ、お木像らしい物が之に入ったので不思議に思っていたところ、ふとそこに童児が現れ我は五十猛命である。此の地に波の音の聞へない七本の楠の洞があるからそこへ私をまつれ、しからば村人は勿論当地へ入り来る者も守護するからと云うと同時に童児は地に伏してしまったので、村人一同で探し当てた所が、今の此の地であり、毎年6月15日(新暦の7月15日)になると海岸へ出て当時を偲ぶお祭を行う。(7月の例大祭。こがし祭)当時海辺で神に麦こがしを神に供えて、尚、国の天然記念物に指定されている此の大楠は、当社の御神木(ヒモロ木)であって、太古は此の楠へ神の霊をお招きして神をまつっていました。いわゆるヒモロ木神社である事は故宮地直一、加藤玄智両博士の著書にも述べられています。火日本武尊は人皇第十二代、景行天皇の御代、御東征に出陣せられ、箱根路から、此の地に軍を進められた時、住民を労り、産業を奨励した功績と、武勲を称えたゝめまつられたと伝えられる。」

「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)より
  

 

足柄峠越え

 『古事記』に基づいて書かれた足柄峠の案内板で見ることができますが、倭建命が東征で上総からもどるとき足柄峠の頂に立ち、海に沈んだ弟橘媛を想い「吾妻はや」(あづまはや:わが妻は)と嘆いたと書かれています。『日本書紀』には足柄峠は登場しませんが古代より交通の要衝であったと伝えられています。地図上で見るとこのグループ内の神社は行程に従ってきれいに線でつなぐことができます。

 

命之泉神社 (みことのいずみじんじゃ)芦ノ湖スカイライン 静岡県裾野市茶畑大谷日向  GoogleMap

 東征途中の立ち寄り地です。足柄峠に向かう途中、日本武尊はこの付近で脚気となり体調を崩してしまいました。ところが、湧水でのどを潤したところ病気が治ってしまいました。この伝承に基づきこの湧水を「命(みこと)の泉」と名付け、この後も旅人らののどを潤してきました。

 
 
 

 
 

二岡(にのおか)神社 静岡県御殿場市東田中1939  GoogleMap

 祭神は木花之開耶姫命、天津彦、火瓊瓊杵尊、天忍穗耳尊、火産靈尊、大雷命、保食命、伊弉冉尊、天照大御神です。
 足柄峠を越えてこの地に到った日本武尊は濃霧によって行き先がわからなくなってしまいました。そこに雷神が現れて霧を払いのけ助けたと伝わっています。そのお礼に雷神を祀る社を建てたのが二岡神社(元は二岡七社大権現)です。
 地図上では二岡神社のあとに足柄峠を通るほうが道がつながるため、この位置に入れました。
 

 
 
 

 

足柄峠 静岡県駿東郡小山町竹之下・神奈川県南足柄市矢倉沢 GoogleMap

 静岡県の駿東郡小山町神奈川県の南足柄市境にある標高759mの峠です。かつての駿河国と相模国の国境に位置し、足柄坂(あしがらさか)と呼んでいました。この峠を越えた東は建稲種命との再会地となる坂東(ばんどう)です。
『古事記』では倭建命は蝦夷を征伐した後、足柄の坂本で食事をしているときに坂の神が白鹿となって現れたので、蒜(ひる=野生の葱・韮)で打ち殺したと書いています。『日本書紀』はこの坂のことには触れておらず、蒜で殺すのは信濃の国の出来事です。

 
 
 

 

足柄明神社跡(足柄神社) 静岡県駿東郡小山町竹之下・神奈川県南足柄市矢倉沢境  GoogleMap

 祭神は天照皇大御神、瓊瓊杵尊、日本武尊です。
 日本武尊は明神ヶ岳から足柄峠を越えようとして道に迷ってしまいました。すると目の前に白鹿が現れ、それについていくと無事に峠を越えたと言われています。
 平安時代の末になると足柄明神は矢倉岳の山頂に遷され矢倉明神となりました。その後室町時代には現在足柄神社のある苅野に遷され、昭和時代に足柄神社となりました。足柄峠にある石祠は足柄明神の跡です。

 
 
 
 

足柄神社 神奈川県南足柄市苅野274  GoogleMap

 祭神は天照皇大御神 、瓊瓊杵尊 、日本武尊です。
 日本武尊が東征のとき、明神嶽から足柄山を越えようとしたとき、草木深く、道に迷って先に進めませんでした。すると、白鹿が現れ、その後についていくと足柄峠に着きました。これは神の助けと考え、ここに社を建てて祀りました。日本武尊は足柄村に仮宮を建て滞在しました。

 
 
 
 
 

足柄古道

 足柄峠付近は現在も足柄古道として整備されています。この道を日本武尊は通ったと伝えられています。

 
 
 

 

酒匂(さかわ)川・鮎沢川(あゆざわがわ) 神奈川県足柄上郡松田町  GoogleMap

 富士山の東麓から駿河湾に流れる酒匂川は全長46kmの二級河川です。日本武尊がこの川の水を飲んだところ水がお酒の匂いがしたので酒匂川と名付けたと言われています。
 また、寒田神社の公式ホームページには「尊は東征の帰途、この松田に立ち寄り、身替りとして走水の海で入水した弟橘姫命を偲んで酒勾川(現在は酒匂川)に神酒をそそぎ、妃の冥福を祈ったところ、この神酒が海に流れ入るまで香ったので、酒勾川と名づけたという。」と谷川健一・編 『日本の神々 神社と聖地 第十一巻』の内容が紹介されています。

 
 
 

寒田神社(さむたじんじゃ)神奈川県足柄上郡松田町松田惣領1767  GoogleMap

 祭神は倭建命、弟橘比売命、菅原道真公、誉田別命です。
 ここは日本武尊の立ち寄り地と伝えられています。

 
 
 

 

 
 

「相武の小野」周辺

 弟橘媛が走水の海に身を投げるときに口にした「相武の小野」の地とするのが神奈川県厚木市の小野神社周辺です。

 

御嶽神社 神奈川県秦野市名古木459  GoogleMap

 倭建之命   ( やまとたけるのみこと ) を祀っています。        
『古事記』をもとにした伝承地のようです。倭建之命が東征の時、大樹の下で大山丹沢富士を一望したことから御嶽社を建立したと伝えられています。

 
 
 
 

 

石座(せきざ)神社 神奈川県秦野市鶴巻2345  GoogleMap

 祭神は日本武命です。
 ご神体は日本武尊が東征の折、この地で休息をした際に腰を掛けたと言われる大石です。

 
 
 
 
 

比々多(ひひた)神社 神奈川県伊勢原市三ノ宮1472 GoogleMap

 祭神は豊斟渟尊(とよくもののかみ)、天明玉命(たまのおやのみこと)、稚日女尊(あまのふくおりおんな)、日本武尊、大酒解神(大山祇神)、小酒解神(木花咲耶姫)です。

 
 
 
 
 

小野神社 神奈川県厚木市小野428  GoogleMap

 祭神は日本武命です。(創建ははっきりしませんが元の祭神は日本武命ではなかっ たようです。明治時代に現在の祭神となりました。)
 ここが『古事記』に書かれている「相武の小野」の地としています。

 
 
 
 
 
 

八菅山

八菅山・八菅神社 (はすげじんじゃ 神奈川県愛甲郡愛川町八菅山139  GoogleMap

 国常立命(くにとこたちのみこと)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)、金山毘古命(かなやまびこのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、天忍穂耳命(おめのおしほみみのみこと)らを祀っています。     ここは標高が225mの低山です。この山を眺めた日本武尊は、その形が龍に似ていることから名付けたと言われています。この山には蛇の体を示す名がついた池が残っているそうです。役小角がこの山で修業を行ったと言われ、その時に日本武尊ほか6神を祀ったようです。社伝ではこの修業のとき「八丈八手の玉幡が山中に降臨し神座の菅の菰から八本の根が生え出たという。そこで山の名を八菅山とよぶようになった。」と伝えています。

 
 
  

 
 

 

 
 日本武尊は相模川を上ったのかもしれないと推測して地図を見ると、景行天皇が日本武尊に授けた石楯の伝承がある佐野川地区の石楯尾神社が見つかります。(佐野川の石楯尾神社は次の項で紹介)ここを八菅山のあとの立ち寄り地とすることも考えられますが、八菅山からは随分北に位置します。そのためここは東征後に立ち寄ったとも推測できます。石楯尾神社の社伝に書かれている「持ち来った天磐楯を東国鎮護のため祀った」のは、東征の前なのか、あるいは奥州まで石楯を持参しており、帰路これを祀ったとするのかの解釈によって扱いが変わります。地図から見た行程では東征後に立ち寄ったと推測します。
 景行天皇が授けた石楯を東国鎮護のため祀ったとする伝承は実は他の神社でも見られます。その一社が諏訪神社(神奈川県大和市下鶴間2540 次の項で紹介)です。ここは旧石楯尾神社と言われています。こちらが実際に石楯を祀った神社とすれば、奥州に向かう前に相模川を上ったと推測することなく(突出して北に行くことなく)、相模原市で南下して三浦半島に向かったと考えられます。
 
 

三浦半島入り口

 

五社神社 神奈川県綾瀬市早川1603  GoogleMap

 天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、鵜草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)を祀っています。        
 日本武尊が東征のとき、この地に5枝の榊の木を植樹して、5柱の祭神を祀る神社を創始しました。境内には日本武尊が腰かけたと伝わる腰掛石があります。

 
 
 

 

腰掛神社(こしかけじんじゃ) 神奈川県茅ヶ崎市芹沢2169  GoogleMap

 日本武尊(やまとたけるのみこと)大日霊貴命(おおひるめむちのみこと)金山彦命(かなやまひこのみこと)白山彦命(しらやまひこのみこと)宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)を祀っています。
 日本武尊が東征のとき、ここで石に腰を掛けてしばらく休息したと言われています。

 
 
  

  
   

杉山神社 神奈川県横浜市神奈川区六角橋2-31-23  GoogleMap

 日本武尊が東征の折、この地の大伴久応という者の家に宿泊しました。日本武尊は食事をするとき六角の箸を使い、その箸を家の主久応に与えました。久応は箸に天照大神と日本武尊の名を書いて祀りました。これが杉山大明神の始まりです。地名ははじめ六角箸でしたが、後に六角橋に変わりました。
 
 
 
 
 

 
この後三浦半島へ
 

足柄峠から三浦半島まで、諏訪神社の社伝に従った行程は次のようになります。 

 
 

 

 
 神奈川県大和市下鶴間の諏訪神社には足柄峠から走水までの行程が伝えられています。
 日本武尊が東征の際、景行天皇は楯を護りとして授けました。「東国を鎮護せよ」といわれて渡されたのが石楯(鎮楯とも)です。東国に向う日本武尊は足柄峠をこえ相模に入り、秦野、伊勢原あたりから厚木小野に至りました。ここで野火の難にあいますが、草薙剣でのがれました。さらに相模川を北にのぼり、佐野川村、大島、座間から下鶴間村に入り、横須賀(走水)に至りました。下鶴間村で石楯を安置して鎮護を祈願したところが石楯尾神社です。ここは鎌倉時代の中頃に諏訪神社となり、元宮が石楯尾神社です。
 

 
足柄(あしがら)峠

足柄峠 静岡県駿東郡小山町竹之下・神奈川県南足柄市矢倉沢

GoogleMap

 
 
 
 
秦野(はたの)

御嶽(みたけ)神社 神奈川県秦野市名古木459  GoogleMap

 祭神は倭建之命です。
 社伝には倭建之命が東征の折、大樹の下に腰を据え、大山丹沢富士を一望したという言い伝えによって祠を建てたと書かれています。

 
 
 
 

石座神社 神奈川県秦野市鶴巻2345  GoogleMap

 
 
 
 
伊勢原

比々多神社 神奈川県伊勢原市三ノ宮1472  GoogleMap

 豊国主尊、天明玉命、日本武命他を祀っています。

 
 
 
 
厚木小野  

小野神社 神奈川県厚木市小野428  GoogleMap

 延喜式にもある古社です。明治時代に日本武尊を祀るようになったと社伝に書かれています。それは『古事記』にある相武の小野にもとづくものです。

 
 
 
 
 
野火の難
 
 
相模川を北上

八菅山・八菅神社 (はすげじんじゃ 神奈川県愛甲郡愛川町八菅山139  GoogleMap

 
 
 
 

 

佐野川村

 相模川をさらに北に上ると上野原から佐野川地区に至ります。
 

石楯尾(いわたてお)神社 神奈川県相模原市緑区佐野川3448  GoogleMap

 神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこのすめらみこと:神武天皇)、石村石楯(いわむらいわたて)他を祭神としています。
 社伝によると日本武尊が東征のおり、天磐楯を東国鎮護のためにここに鎮めて神武天皇を祀ったのが始まりとしています。祭神の石村石楯は奈良時代の恵美押勝(藤原仲麻呂、藤原恵美朝臣押勝)の乱のとき朝廷方討伐軍の一人として仲麻呂を斬った功績があります。案内板には「乱を鎮めた功によって、高座・大住・鮎川・多摩・都留の五郡を賜ったといわれ、石楯尾神社の保護者であった。」と書かれています。
 境内の案内では、ここから山を登ったところに「甘草水(かんぞうみず)」と呼ばれていた湧水があるようですが、地元の人の話では現在は水は出ていないのと整備されていない山道で分かりにくいとのことでしたので探すのは取りやめ、案内板の画像に替えました。この案内板には、日本武尊がこの地に来た時、付近に水がなく困ってしまい、鉾で岩に穴を掘ったところ清水が湧き出し泉となったという伝承が書かれています。この清水により兵士たちののどの渇きも潤すことができました。日本武尊は狭野尊(さのみこと:神武天皇)の賜物として泉を「甘草水」と呼び、下流を狭野川と名付けたとしています。

 
 
 

「第十二代景行天皇の庚戊40年、日本武尊東征の砌、持ち来った天磐楯(あまのいわたて)を東国鎮護の為此処に鎮め神武天皇を祀ったのが始まりである。石村石楯は高座郡の県主で当地の住人であった。第四十七代淳仁天皇の天平宝字8年(1222)、先の太政大臣藤原恵美押勝反逆の折、貢の為上京中で押勝の首をとり乱を鎮めた功により高座、大住、鮎川、多摩、都留の五郡を賜ったと言われ、石楯尾神社の保護者であった。幣殿、拝殿は昭和12年に改築されたが本殿は室町時代の建築様式をよく伝えており建築史上貴重なものである。本殿棟札には天保7年11月氏子中、調写、浄善石船、謹記とある。神楽殿は弘化年間(1845)に建てられたもので、通常は中央部を通路に使用し祭典の折には厚板で覆い、奉納の舞、芝居の舞台として使用出来る様に工夫されている。平安時代に施行された延喜式[延喜5年(905)撰進、康保4年(967)施行]に記されている相模の式内13社の内石楯尾神社は本社ではないかと言われている。(注)昭和12年~13年にかけ郷社への昇格を運動したが、確たる証拠書類ない為昇格ならず現在は指定村社で終わっている。今でも考古学者等が度々調査に訪れる。森(杜)木は根周り5mを越す大きな杉が何本もある。」
「全国神社祭祀祭礼総合調査(平成7年)」[神社本庁](平成「祭」データCD-ROM)より

 

牛倉神社 山梨県上野原市上野原1626  GoogleMap

 
 
 

 

権現社・王勢籠(おせろう)神社山梨県上野原市和見(里宮) GoogleMap

 祭神は日本武尊です。特別な伝承はありません。何かあったのでしょうが伝えること、記録することなく消えてしまったのかもしれません。
 少し離れた権現山に奥宮があり、和見にある社は里宮です。地元の人は「権現」と呼んでいて「王勢籠」と尋ねてもご存じない方ばかりでしたが、山王社近くの民家で尋ねて分かりました。GoogleMapには王勢籠神社の社名が出ていましたが、そこには山王社があり、詳しく聞かなければ山王社を王勢籠神社とするところでした。実際の場所は最初にMapに表示されたところから北西に200m程道を上ったお寺の入り口付近にありました。民家と倉庫に挟まれ分かりにくい場所でしたが、地面に地図を描いて教えていただきました。(現在GoogleMap上の神社位置は修正されています。)

 
 
 
 

 

 
大島

皇武神社 神奈川県相模原市淵野辺本町4-20-11  GoogleMap

 祭神は日本武尊 です。       
日本武尊が東征のとき、相模を通過する際、突然の大雨に遭いました。そのため、小野と称する者の家に立ち寄りました。この時村人は、甕(かめ)の酒を捧げたと伝わっています。

 
 
 

 

大沼神社 神奈川県相模原市南区東大沼2丁目10   GoogleMap

 
 
 

神鳥(しとど)前川神社 神奈川県横浜市青葉区しらとり台61-12  GoogleMap

 
 
 
 
座間

五社神社 神奈川県綾瀬市早川1603  GoogleMap

 
 
 

 

 

深見神社 神奈川県大和市深見3367  GoogleMap

 武甕槌神(たけみかずちのかみ)、建御名方神(たけみなかたのかみ)を祀っています。    
 日本武尊は足柄峠を越えてここの岸辺で休息しました。またここから水軍を出しました。周辺の薙原、石楯尾、御難塚という地名からここが日本武尊の遭難の地と伝えられています。もしそうであるなら、諏訪神社の社伝上では厚木小野の伝承と合わせて野火の難の地が2か所あることになります。

 
 
 
 
 
 
 
下鶴間村

諏訪神社/旧石楯尾神社 神奈川県大和市下鶴間2540  GoogleMap

 石楯を安置して鎮護を祈願したと伝えられています。高座郡石楯尾神社に比定されています。

 
 
 
 
 

 
石楯尾神社が神奈川県内にいくつもあり同様の言い伝えがあります。
 

石楯尾神社 神奈川県相模原市緑区佐野川3448 (前の項で紹介) GoogleMap

  諏訪神社の伝承では下鶴間村で石楯を安置したとあり、これに従えば、佐野川は下鶴間より北にあるため、行程には当てはまらなくなります。

 
 
 
 

石楯尾神社 神奈川県相模原市緑区名倉2524  GoogleMap

 
 
 

 
その他
  石楯尾神社 神奈川県相模原市南区磯部字中峯2132
  石楯尾神社 神奈川県藤沢市鵠沼神明2-1-5
 
  

横須賀(走水)

 
 

駿河上陸から三浦半島まで、走水神社の社伝に従った行程は次のようになります。 

  

*各神社については既に紹介した内容と同じです。

 

駿河 焼津上陸

 

焼津神社 北御旅所(静岡県焼津市北浜通)  GoogleMap

 毎年、日本武尊の上陸に因んだ神事が行われています。

 
 
 
 

 

御沓脱遺跡 静岡県焼津市  GoogleMap

 日本武尊が沓(くつ)を脱いで休息しました。

 
 

 

焼津神社 静岡県焼津市焼津2丁目7番2号-(入江大明神)  GoogleMap

 御祭神は日本武尊で、東征の従者である吉備武彦命、大伴武日連命、七束脛命らも祀られています。古代は海に近く、入江大明神とも呼ばれていたようです。社伝では、日本武尊の東征のおり、相模国に到着した倭建命は国造に騙されて野原に火をつけられましたが、持っていた剣と火打ち石で難を逃れました。草を焼き払ったところは「焼津」と言われています。日本武尊は水石と火石の2個の石を投げたところ、1つは熱田神宮、もう1個は焼津神社に落ちたといわれています。

 
 
 

 

 
天皇神社 静岡県焼津市駅北2-5-1-26  GoogleMap

 
 
 

 
 

 
相模小野  厚木

 

小野神社 神奈川県厚木市小野428  GoogleMap

 ここを火難の地とするのは弟橘姫の歌が根拠となっています。 
 走水で入水する際、弟橘姫は「さねさし さがむ(相武=相模)のおの(小野)にもゆるひのほなか(火中)にたちて とひしきみはも」と歌を詠んだとされています。この「小野」は小野神社のある地名と言われています。

 
 
 
 
鎌倉

 

五社神社 神奈川県綾瀬市早川1603  GoogleMap

 天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、鵜草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)を祀っています。        
 日本武尊が東征のとき、この地に5枝の榊の木を植樹して、5柱の祭神を祀る神社を創始しました。境内には日本武尊が腰かけたと伝わる腰掛石があります。

 
 
 

 

腰掛神社(こしかけじんじゃ) 神奈川県茅ヶ崎市芹沢2169  GoogleMap

 日本武尊(やまとたけるのみこと)大日霊貴命(おおひるめむちのみこと)金山彦命(かなやまひこのみこと)白山彦命(しらやまひこのみこと)宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)を祀っています。
 日本武尊が東征のとき、ここで石に腰を掛けてしばらく休息したと言われています。

 
 
  

 
 

逗子
 
葉山
 
走水

  
 
その後の駿河は・・・
 東征の後、功績のあった吉備武彦が駿河を治めることとなりました。
 廬原国造(いおはらこくぞう)の祖となった意加部彦(おかべひこ)は吉備武彦の子です。
  

 

 日本武尊を騙して焼き殺そうとしたのはどんな人たちなのでしょうか。
 この野火の難の出来事は記紀ともほぼ同じように書かれていますが、記紀により騙した者たちの表記に違いが見られます。 これは『古事記』では明確に「国造」とし『日本書紀』では単に「賊」としています。「国造」は「こくぞう」や「くにのみやつこ」といい、大和朝廷に従って地方を治めている支配者をさしています。通常は地方の首長・首領といった有力者がその職に就いています。
 

高尾山古墳 静岡県沼津市東熊堂(くまんどう)北方  GoogleMap

 長さ約62mの前方後方墳で邪馬台国と同時代の3世紀に築造された東日本では最古級の古墳ですが、残念ながら一部破損しています。かつて駿河一帯を支配する勢力の首長墓と考えられます。日本武尊が戦った相手はこの古墳の被葬者の子孫ではなかったかとも推測されます。
 この古墳がある場所は道路建設予定地となっており、調査中のようですが、このままでは消滅してしまうかもしれません。

 
 
 
  

 
 駿河に「国造」がおかれているということは、ここが大和朝廷の支配下にあったことを意味しており、日本武尊はそれを知っていて安心してここに入ったことになります。『日本書紀』のように「賊」とするならば、ここはまだ朝廷の支配下になく、いわゆる野蛮な者たちがはびこる荒れた地域となります。当然いつ襲われるかわからないため用心して入ったはずです。駿河では、地方の首領が任に就いていた国造が賊と化したとも考えられます。
 
 駿河に入った日本武尊は国造らの勧めもあり、広い野で狩りをすることしました。もし賊とわかっていたならば、愛知の岡崎や湯谷でのことのようにすぐに征伐したことでしょう。日本武尊は天皇の名のもとに東国の平定をしようとしている皇子です。逆らう者は容赦なく征伐してきました。ここ駿河では国造たちは笑顔で迎え、遠征の疲れを癒してもらおうと計画したかのように日本武尊をもてなそうとしました。しかし、これは尊を騙し打ちするための作戦でした。国造たちは騙されて野に入った日本武尊を焼き殺そうとしました。この時になって、狩を誘った首長たちは本当は朝廷に逆らう「賊」だったことに気づきました。『日本書紀』の原文を見ると「賊有殺王之情王謂日本武尊也」のように、王を殺そうとした賊として表記しています。国造という職に就いていても、結果的に、中央への従順なそぶりを見せつつも機会を見て反逆しようとした者なので「賊」と表記したのでしょう。日本武尊の駿河入りは反逆の好機と考え、中央政権による地方への「侵略行為」に対して急に反旗を翻したということになります。
 
 また、北から駿河に進軍してきた蝦夷らが日本武尊を殺そうとしたという説もあります。この当時の蝦夷らは関東以北を支配しようとしていたと考えられます。武内宿祢が天皇に東国の様子を報告した際に「早く征伐すべき」と進言していますが、その時は熊襲征伐が急務であったため日本武尊は九州に派遣されました。その間に蝦夷の力が増し、関東以北を拠点としていた蝦夷らが西に進軍してきたと考えてもよいかもしれません。
 しかし、これは後の時代の出来事と混同されているのではないかという疑問があります。桓武天皇の時代に蝦夷の悪路王(あくろおう)が勢いを増し、駿河まで進出してきたということが伝えられているからです。悪路王は京で娘をさらって陸奥に連れ帰ったとも言われており、これを征伐するために征夷大将軍となった坂上田村麻呂が派遣されました。実際に日本武尊と戦った上総の蝦夷は悪留(あくる)王(阿久留王)で、平安時代に坂上田村麻呂が征伐したのが悪路(あくろ)王です。これらの言い伝えが混同されて伝えられているとも考えます。上総の悪留王も後の時代に悪路王と混同して伝えられているという説もありますが、日本武尊と悪留王の戦いが行われたという史跡が房総半島にあることを考えれば、悪留王は土着の賊で悪路王とは別人と考えてよいのではないでしょうか。
 

 
 野火の難の伝承地は数か所あります。だから実際はどこで起きたのかはっきりしません。このことはは野火の難そのものがなかったとする説の根拠ともなりますが、ここでは難の否定をしないでおきます。野火の難に関係がある6か所について探ってみました。

 
 

候補地1 焼津神社周辺

  この根拠となっているのは焼津という地名の伝承です。火攻めが行われた地、賊を焼き殺した地として「焼津」という地名としたとする強い主張があります。この説に関連した史跡がいくつかあります。
 
 

焼津漁港 静岡県焼津市   GoogleMap

 駿河湾に面して大きな漁港がある焼津は水産業の盛んなところです。日本武尊は浜名湖から出航しこの地に上陸して駿河の賊らと戦いました。

 
 

 
 

焼津神社 静岡県焼津市焼津2丁目7番2号  GoogleMap

 御祭神は日本武尊で、東征の従者である吉備武彦命、大伴武日連命、七束脛命らも祀られています。古代は海に近く、入江大明神とも呼ばれていたようです。社伝では、日本武尊の東征のおり、相模国に到着した倭建命は国造に騙されて野原に火をつけられましたが、持っていた剣と火打ち石で難を逃れました。草を焼き払ったところは「焼津」と言われています。日本武尊は水石と火石の2個の石を投げたところ、1つは熱田神宮、もう1個は焼津神社に落ちたといわれています。

 
 
 

 

 
御沓脱遺跡 静岡県焼津市 GoogleMap
 火難の後先はわかりませんが、日本武尊はここで履いていたものを脱いで休息しました。
 
 
 

異説 焼津は天然ガス産出地 

 焼津地区には現在も天然ガスが産出するところが数か所あります。古代、このガスに火が付くことで野が焼けているように見えたので「焼津」の地名になったという説もあります。
 日本各地に天然ガスが採取できるところがあります。太平洋側では神奈川、東京、千葉など、日本海側では新潟県が埋蔵量も多いようです。静岡県焼津市でも地下から湧き出す温泉とともにガスの採取を行っています。副産物の温泉は市内の施設に供給されており、その一施設が焼津黒潮温泉です。

東海ガス50号井 静岡県焼津市駅北1-14  GoogleMap

 50号井は天然ガスを採取するために掘削した井戸です。ここからガスの採取を行い、副産物として温泉が湧き出すため、これを市内の施設に給湯して利用しています。50号井の隣には供給されている施設の一つなかむら館があります。

 
 
 

 
 

候補地2 草薙神社周辺

 ここを野火の難の地とする明確な根拠は、草薙神社が景行天皇が創建した神社だからとする説があります。景行天皇は日本武尊の東征後に日本武尊にゆかりの地を巡っていました。その時建立した社が草薙神社です。ここの伝承では火攻めをされた地は近くの谷としています。抵抗した賊らを殺して埋めたという伝承地も草薙神社近くにあります。そこが首塚稲荷神社と言われています。言い伝えられているような火攻めされた近くの谷とはどこだったのでしょう。
 

草薙(くさなぎ)神社 静岡県清水市草薙349  GoogleMap

 御祭神は日本武尊です。日本武尊が東征に向かう途中、賊が野に火をつけて日本武尊を焼き殺そうとしました。そこで、尊は倭姫命より授かった剣を抜いて「遠かたや、しけきかもと、をやい鎌の」と鎌で打ち払うようなしぐさで剣を振り、草を薙ぎ払って難を逃れました。このときの剣を「草薙の剣」 と呼んでいます。そして、火をつけた野は「草薙」とよばれるようになりました。後に景行天皇がこの地を訪れて社を建立しました。そして、日本武尊を祀り、御霊代として草薙の剣を奉納しました。その後、天武天皇の時代に草薙の剣 は熱田神宮で祀られるようになりました。草薙神社は平安時代に現在地に遷座されました。

 
 
 
 
 

首塚稲荷神社(くびつかいなりじんじゃ)静岡県静岡市清水区草薙1124  GoogleMap

 この地で戦いがあり戦死者の首を埋め塚を造ったとする伝承があります。北側の川は血流川と呼ばれています。

 
 
 

 
 
 

天皇原公園付近 静岡県静岡市清水区草薙 GoogleMap

 現在の草薙神社への参道沿いに「天皇原」と名がついた公園があります。
日本武尊が駿河の賊と戦い、火攻めに遭いながらも勝利した地を景行天皇が訪れて社を建立しました。この辺りは比較的平らな土地で、草薙神社に向かうと坂を上っていくことになります。現在の地名は草薙ですが、昔の地名が公園の名として残っていました。

 
 
 
 
草薙神社 古宮(ふるみや) 静岡県静岡市清水区草薙  GoogleMap
 景行天皇が日本武尊の戦跡地を訪れて社を建立しました。その場所は現在も石祠が建てられ草薙神社の古宮として祀られています。
 この場所はマンションの建物の北側にあり、マンション南西角に案内板が立ってられています。フェンス沿いに入っていくと石祠が見えます。
 
 
 
  
瓢箪塚(ひょうたんつか)古墳(西原1号墳) 静岡県静岡市清水区草薙  GoogleMap
 全長約40mの前方後円墳で、6世紀初めの築造と言われています。この周辺にはこのような古墳が数基あったようですが、宅地開発のため消えてしまいました。この一帯は古くからここを治めていた一族の墓が点在していたようです。この古墳は前方後円墳なので大和の支配や影響を受けて築かれています。駿河の賊を退治した後、この地を治めた者の墓と思われます。東征の後副将軍であった吉備武彦の子孫の意加部彦(おかべひこ)が庵原(いおはら)の国造となって治めたところでもあるため、被葬者との関係があるものと考えられます。
 
 
 
  

 
 

廣野神社  静岡県静岡市駿河区国吉田1056  GoogleMap

 祭神は素盞烏尊です。
 境内に入ると樹齢約500年と言われる御神木の大樟が目に入ります。ここに日本武尊が東征の折、素盞烏尊を祀りました。

 
 
 

 

 

 
 賊を征伐した日本武尊は日本平の頂に立ち、富士山を背に眼下に広がる駿河の地やこれから向かおうとする東国の方を見まわしました。
 

日本平 静岡県静岡市駿河区・清水区境界  GoogleMap

 頂上付近に石碑があり「尊この地に登りて國見し給う」と彫られています。この石碑は昭和43年建立されました。

 
 
 
 
 

 

御穂神社(みほじんじゃ)・三保大明神 静岡県静岡市清水区三保1073  GoogleMap

 三保の松原に伝わる「羽衣伝説」に関係する神社です。世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の1つになっています。
 祭神は大己貴命(おおあなむちのみこと)で 別名は三穂津彦命(みほつひこのみこと)、三穂津姫命(みほつひめのみこと)です。創建は不詳で『駿河雑志』には「日本武尊が勅により官幣を奉じ社領を寄進した」と書かれているようです。(wikipediaより)
 

 
 
  

 
 

候補地3 久佐奈岐神社周辺

 草薙神社と同様に火攻めの地としての伝承があります。久佐奈岐(くさなぎ)神社の創建は草薙神社より古いと言われています。
 

久佐奈岐神社(旧東久佐奈岐神社) 静岡県静岡市清水区山切101 GoogleMap

 祭神は日本武尊です。ほかに弟橘姫命、吉備武彦命、大伴武日連命、膳夫七掬胸脛命らが祀られています。また、東征に従った多くの従者を九万八千霊社に祀っています。
 この神社がある地区は当時廬原(いおはら)国と呼ばれていました。日本武尊は東征のおりここに本宮を設けました。東征後に従者の一人吉備武彦がこの地を治めることとなり、日本武尊を祀る社殿を築きました。もとは「東久佐奈岐神社」と呼んでいました。

 
 
  
 

久佐奈岐神社 九万八千霊社  GoogleMap

 久佐奈岐神社の境内には東征で戦った多くの兵の霊も祀られています。

 
 
 

            

矢倉神社 静岡県静岡市清水区矢倉町5  GoogleMap

 久佐奈岐神社の近く、日本武尊が布陣した所に神社を建てました。ここには多くの兵がいたとされ、武器を置いたところでもありました。東征後にこの地を治めた吉備武彦の子で庵原国造となった意加部彦 (おかべひこ)が祭祀をとりおこなったと伝えられています。
ここは日本武尊の滞在地でもあり、東征のための軍や武器を整えたとも考えられます。

 
 
 

 

豊由氣神社・豊由気神社(とよゆけじんじゃ)静岡市清水区庵原町2894 GoogleMap

 祭神は豊受姫命で木花開耶姫命も祀られています。日本武尊が東征のときに豊受大神を祀ったのが始まりです。

 
 
 

 
 
 

候補地4 大沼神社の地

大沼神社 神奈川県相模原市南区東大沼2丁目10 GoogleMap

 『古事記』の相模にある地で、ここはかつて沼地・原野が広がっていました。神社の境内にある立派な石碑には「大沼は遠く日本武尊東征の砌り火難に相遇されし地」と書かれています。この碑は昭和41年に建立されたものです。口碑伝承としてここが日本武尊の火難の地とされています。

 
 
 
 
  

 

酒匂川(さかわがわ) 神奈川県

  神奈川県の西部、相模湾に流れる長さ約50kmの川です。戦いの無事を祈って川に酒を流しました。その匂いは帰路で立ち寄った際にも残っていたと言われています。

 

  

候補地5 小野神社の地

小野神社 神奈川県厚木市小野428  GoogleMap

 ここを火難の地とするのは弟橘姫の歌が根拠となっています。 
 走水で入水する際、弟橘姫は「さねさし さがむ(相武=相模)のおの(小野)にもゆるひのほなか(火中)にたちて とひしきみはも」と歌を詠んだとされています。この「小野」は小野神社のある地名と言われています。

 
 
 

 

候補地6 深見神社周辺

深見神社 神奈川県大和市深見3367  GoogleMap

  武甕槌神   ( たけみかずちのかみ ) 建御名方神   ( たけみなかたのかみ )を祭神として祀っています。日本武尊が東征のとき足柄峠を越えてここの岸辺で休息しました。またここから水軍を出しました。社伝によるとここは「薙原」や「御難塚」という地名で日本武尊が遭難されたことにちなんでつけられたとされています。しかし、薙原や御難塚などの地名を見つけることはできませんでした。草薙と音のよく似た「草柳」という地名が大和市にあるだけでした。

 
 
 

 
  
 

 駿河の行程の内容からは離れます。 
 

草薙剣

 日本武尊を救ったのは天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)です。この剣は素戔嗚尊が八岐大蛇から得た剣と言われ、刃の文様が天に雲がかかるように見えることから「天叢雲」と名がついたと言われています。素戔嗚尊が高天原に献上しましたが天孫降臨の際、邇邇藝命(ににぎのみこと)が天叢雲剣を携え、葦原中国(あしはらのなかつくに =日本国)を治めるため高天原から降りてきました。これ以降天皇の元にありましたが、垂仁天皇の時代、この神剣を祀るため八咫鏡とともに倭姫命が保管していました。

 草薙の剣草薙の剣

 

倭姫命から日本武尊に

伊勢神宮 三重県伊勢市宇治館町1 GoogleMap

 天照大神の御神霊の八咫鏡と天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ:後の草薙剣)は倭姫命に託されていました。日本武尊が倭姫命に会ったのは現在の伊勢神宮内宮であろうと考えられています。倭姫命は各地を巡幸され、垂仁天皇26年、最終的に五十鈴川の川上に鎮座地を定めました。

 日本武尊はここで倭姫命から天叢雲剣と(火打石が入った)袋を授かり、「油断しないように」と声をかけられました。

 
 
 
 
 
草薙剣誕生

 日本武尊は駿河の賊らに騙され、弟橘媛とともに危うく命を奪われるところでしたがこの霊剣によって野火の難から逃れることができました。日本武尊と弟橘媛を救った剣は「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」と呼ばれるようになりました。
 

 草薙剣は駿河の野火の難で日本武尊を救い、その後も日本武尊と共にありました。
  
焼津神社 静岡県焼津市焼津2丁目7 GoogleMap
  
草薙神社 静岡県清水市草薙349 GoogleMap
  
首塚稲荷神社 静岡市清水区草薙1124 GoogleMap
  
久佐奈岐神社(旧東久佐奈岐神社) 静岡県静岡市清水区山切101 GoogleMap
 
 
 
 
 駿河国の伝承地
 
 
草薙剣は宮簀媛の館に

熱田神宮参道案内板

 東征後、日本武尊は火上山(名古屋市緑区大高町)の宮簀媛(みやずひめ)の館に滞在しました。草薙剣もここにありました。

氷上姉子神社 愛知県名古屋市緑区大高町火上山1 GoogleMap
 ここに宮簀媛の館がありました。
 伊吹山の神を討ちに行くとき、日本武尊はこの館に草薙剣を置いて出ていきました。日本武尊は伊吹山での戦いの後に病となり、宮簀媛と再会することなく三重県の能褒野で亡くなりました。
この時の様子は伊吹山の戦い
 
 
 氷上姉子神社 宮簀媛の館跡
 
 
草薙剣は熱田へ

 日本武尊が亡くなると宮簀媛は神剣を祀る神社を熱田の地に建てました。

熱田神宮 愛知県名古屋市熱田区神宮1-1-1 GoogleMap
 
 
 熱田神宮
 
 
草薙剣盗難事件

熱田神宮 清雪門(せいせつもん) GoogleMap

 新羅の僧によって草薙剣が熱田神宮から盗み出されました。その時盗人が通ったのが境内にある清雪門です。そのため、現在は二度と開けることのない門となっています。

 
 
熱田神宮 清雪門
 
 
草薙剣を投げ捨てる
 草薙剣を盗み出した僧は難波に至り、嵐で国外に出られなくなりました。そのため、盗むことをやめ捨ててしまいました。
阿遅速雄神社(あちはやをじんじゃ)大阪府大阪市鶴見区放出東3-31-18 GoogleMap

  神剣を放り投げたことから、この地を「放出」と書いて「はなてん」と読みます。

 
 
 阿遅速雄神社
 
 
大和の宮へ

 難波で剣が見つかると宮のある大和(石上神社)に留め置かれました。そのため「布留剣(ふるのつるぎ)」とも言われました。

 
石上神社 出雲建雄神社 GoogleMap
 
 
 出雲建雄神社
 
 
再び熱田へ
 都で災いが起こり、これは奈良の宮にある神剣の祟りと恐れた天皇は熱田に戻しました。
熱田神宮 愛知県名古屋市熱田区神宮1-1-1  GoogleMap
 
 
 熱田神宮
 

 天叢雲剣は1本の剣の名ではなく、出雲で作られた名剣で何本もあったと言われています。そのうちの1本が草薙剣となり現在熱田神宮に祀られています。

 
 
  草薙剣が倭姫から日本武尊に渡り、宮簀媛が祀る熱田神宮に落ち着くまでについて触れておきます。詳細は草薙剣