日本武尊の足跡を追いかける

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「神宮」(伊勢神宮)と『倭姫命世紀』

 

神宮(伊勢神宮)には天照大神が祀られています。
第11代垂仁天皇の皇女倭姫命が各地を巡幸されたのち、
五十鈴川沿いの地に奉斎されました。
 

神宮

伊勢神宮内宮

 伊勢神宮の正式名は「神宮」です。三重県伊勢市宇治館町に鎮座しています。

 「お伊勢さん」とよぶことがあります。日本の多くの神社の中でも特別格の神社です。平成から令和と改元される前の2019年4月、平成の天皇は勾玉と神剣を携えて伊勢神宮を参拝し、退位のご報告をされました。天皇が直接報告されるのは大変珍しいことです。
 伊勢神宮には三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)が天照大神の霊魂の依代(よりしろ:ご神体)として祀られています。
 
 以下125社全てを総称して「神宮」としています。
 皇大神宮(こうたいじんぐう) 内宮(ないくう)
  皇室の祖神とされる天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀っています。
 豊受大神宮(とようけだいじんぐう) 外宮(げくう)
  衣食住や産業の守り神とされる豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀っています。
 14の別宮、43の摂社、24の末社、その他42社
 

三種の神器 

 八咫鏡(やたのかがみ)
 この鏡は天照大神が岩戸に隠れた際に石凝姥命(いしこりどめのみこと)が作ったとされるものです。
 天孫降臨で日向の高千穂に降りられた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が天照大神のもとにあった神鏡を持ってきました。天照大神は降臨する瓊瓊杵尊に「鏡を我が魂として祀れ」と託しました。『古事記』
 三種の神器は皇位継承のみしるしですが、宮中の賢所(かしこどころ)に祀られているのは模造品の鏡です。
 
 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)(後に草薙剣)
 素戔嗚尊が十握剣(とつかのつるぎ)で八岐大蛇の尾を切ったときに出てきた剣で、高天原の天照大神に献上されていたものです。天孫降臨の際、瓊瓊杵尊は高天原の天照大神から三種の神器を授けられました。
 源平の合戦で安徳天皇は三種の神器とともに壇ノ浦で入水しましたが、鏡と勾玉は海中から回収されました。しかし、神剣は見つからなかったとされています。これは現在熱田神宮に祀られている草薙剣とは別の分身をさしています。

 
 八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま) 
 「八尺」「勾玉」と書くこともあります。
 天照大神が天岩戸に御隠れになったとき、再び現れることを願って玉祖命(たまのおやのみこと)が作り榊の木に飾られました。このとき八咫鏡もつけられています。 
  

皇居

 三種の神器は天皇であることの御璽(みしるし)です。

 伊勢神宮に祀られる以前に天皇の宮にあった神鏡、神剣、勾玉の三種の神器は高天原から天孫降臨の際に瓊瓊杵尊とともに高千穂に天降ったものです。その後は天皇の宮で祀られていました。これらを祀る場所を宮中以外で探すためとはいえ、外に持ち出すと言うことは天皇の証が宮からなくなることを意味します。天皇は祭祀を司る斎部(いんべ:忌部)氏を呼び、石凝姥命(いしこりどめのみこと)と天目一箇(あめのまひとつのかみ)の子孫を指導させました。そして、新しく鏡と剣を作らせ、これらを天皇の護りとしました。これらは単にレプリカではなく、それぞれの分身と考えられています。つまり、この時代より現在まで、三種の神器のうち(本物の)勾玉以外の神鏡と神剣は本物ではなく分身が皇位継承に伴って受け継がれています。
 石凝姥命(別字:伊斯許理度売命:いしこりどめのみこと)は鏡作連(かがみづくりのむらじ)らの祖神です。
 天目一箇神(あめのまひとつのかみ)は製鉄や鍛冶の神です。
 後世斎部(いんべ)氏の子孫は平安時代に編纂された『古語拾遺(こごしゅうい)』の編纂に携わっています。
 

壇ノ浦

 さらに、現在宮中にある三種の神器のうち、分身の神剣は崇神天皇の時代に作られたものではありません。それは崇神天皇の時代の神剣は源平の合戦の際壇ノ浦で安徳天皇とともに海に沈んでしまったからです。勾玉と神鏡は見つかったのですが神剣は見つかりませんでした。次の天皇の後鳥羽天皇と土御門天皇は宮中清涼殿の昼御座(ひのおまし)にあった剣を代用し、順徳天皇からは伊勢神宮が献上した剣を神剣として三種の神器としました。

 三種の神器のうち、分身の神鏡は皇居の「賢所(かしこどころ)」、本物の勾玉と伊勢神宮が献上した分身の神剣は天皇の寝室の隣にある「剣璽の間(けんじのま)」に置かれています。そして、分身ではないもともとの本物ですが、八咫鏡は伊勢神宮内宮、草薙剣は熱田神宮に祀られています。
 
 
 

天神地祇(てんじんちぎ)

 天照大神は天の神です。宮殿内で地の神とともに天皇のもとに同居していました。
  崇神天皇6年のことです。世の中が不安になり反乱が起きてしまうのため、天皇は天の神地の神にお祈りをしました。天皇は天神地祇(てんじんちぎ)=天の神(天照大神)と地の神(大和大国魂神:やまとおおくにたまのかみ)を宮中で一緒に祀っていましたが、この神々とともに住むことには畏れ多いと思っていました。そこで、二神を離し、天照大御神の御霊代(みたましろ)とする八咫鏡(やたのかがみ)を祀るのにふさわしい場所を探すよう皇女の豊鍬(鋤)入姫命(とよすきいりひめのみこと)に命じたのです。
 
 豊鍬入姫命は大和の笠縫邑(かさぬいのむら)で長く祀っていました。それは次のようなことがあったからです。
 第10代崇神(すじん)天皇6年9月のこと、天皇は大和国の笠縫邑(かさぬいむら)におこしになり、皇女の豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)に神鏡の八咫鏡(やたのかがみ)と神剣の天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を授けて、ここで天照大神を奉斎するよう命じました。
 

『倭姫命世紀』

*天皇年は『倭姫命世紀』によるものですが、記紀も同様にこの時代の天皇の在位年や年齢は正確ではありません。正しい年齢など確定された書物もありません。 
 

崇神天皇6年 笠縫邑(かさぬいむら)  

 
 笠縫邑には33年間祀られていました。
 
 檜原神社 奈良県桜井市三輪
 飛鳥坐神社 奈良県高市郡明日香村
 その他にも笠縫邑とされる神社が数社あります。
 

飛鳥坐(あすかにいます)神社 奈良県高市郡明日香村飛鳥708 GoogleMap

 祭神は事代主神(ことしろぬしのかみ)、高皇産靈神(たかみむすびのかみ)、飛鳥神奈備三日女神(加夜奈留美:かやなるみ)、大物主神です。
 この地が天照大神を宮の外で初めて祀った地「笠縫邑(かさぬいむら)」であったとしており、元伊勢と呼ばれることもあったようです。

 
 
 

 
 笠縫邑に長く奉斎した後、天照大神の言葉を聞いた豊鋤入姫命はそれを祀るのにふさわしい場所を探すため各地を巡幸することとなりました。そして、丹波、和歌山、岡山を廻り、現在の奈良県の三輪山に戻ってきました。崇神天皇58年、豊鍬入姫命は姪の倭姫命にこの役を引き継ぐことにしました。次の垂仁天皇は天照大神の御杖代(みつえしろ)として皇女倭姫命に鎮座地を探すよう託しました。倭姫命も各地を巡幸し、最後に御神託により五十鈴川沿いに落ち着きました。豊鍬入姫命と倭姫命が巡幸され、天照大神を仮に祀ったところは「元伊勢」とよばれています。
 

  

大和大国魂神を祀った地

 
 大和大国魂神は淳名城入媛命(ぬなきいりひめのみこと)に預けましたが、媛の髪が落ち、やせ細ってしまいました。その後、夢のお告げにより市磯長尾市(いちしのながおち)を大国魂神を祀る祭主としました。
 

 

大和神社 奈良県天理市新泉町306 GoogleMap

 祭神は日本大国魂大神(やまとのおおくにたまのかみ)、八千戈大神(やちほこのおおかみ:大国主)、御年大神(みとしのかみ)です。
 ここに国土の神である大和大国魂神を祀ることとしました。

 
 
 
 
長岳寺 奈良県天理市柳本町508 GoogleMap
 空海が開いた高野山真言宗の寺で山号は釜の口山(かまのくちさん)で阿弥陀如来を本尊としています。この寺が建つ前、ここに大和大国魂神を祀る社が鎮座していたという説があります。また、桜井市穴師にあったとも言われています。現在の大和神社は遷座地と言われています。
 
 
 
 

 豊鋤(鍬)入姫命(とよすきいりひこのみこと)は大和国笠縫邑を出てまず丹波国に向かい、吉佐宮(よさみや)で祀っていました。その後、紀の国、吉備国を回り大和国御室嶺上宮(みむろのみねのうえみや)で奉斎することとなりました。
 

 

 

 
 
崇神天皇39年  吉佐宮 よさのみや

 
 豊鍬入姫命が天照大神を笠縫邑(かさぬいむら)で33年間祀ったあと丹波国吉佐宮(よさのみや)へ遷座しました。吉佐宮は4年間滞在しました。
 この年、豊受大神が天上界から降りて、天照大神の食事の世話をしました。
 

丹波国の元伊勢二社 

元伊勢皇大(こうたい) 神社 京都府福知山市大江町内宮

  GoogleMap
 祭神は天照大神です。
 鬼退治で有名な大江山の近くにあります。元伊勢内宮と呼ばれています。
 豊鍬入姫命は次の遷座地を現在の奈良県桜井市としますが、里人たちは豊鍬入姫命が旅立った後も内宮元宮として祀ることとし、元明天皇の時代に天照大神を祭神とする社を建てたと言われています。

 
 
 
 元伊勢内宮の近くには元伊勢外宮と呼ばれている豊受大神社(福知山市大江町字天田)があります。さらに、京都府京丹後市には豊受大神を祭神とする比沼奈為(ひぬまない)神社(京丹後市峰山町久次)が鎮座しています。
 

元伊勢籠(この) 神社 京都府宮津市字大垣430 GoogleMap

 祭神は彦火明命 (ひこほあかりのみこと)です。丹後国一宮です。景勝地天橋立がある宮津市にあります。
 伊勢神宮の外宮の祭神豊受大神は「真名井原」(真名井神社の奥宮)に鎮座していたとされ、そこが「與佐宮」(よさのみや)と呼ばれていました。豊鍬入姫命が豊受大神と天照大神を4年間併せ祀った場所としています。
 豊受大神は天上界から丹波に降りた彦火明命(ひこほあかりのみこと)
 
 天照大神が遷座されたのちも豊受大神はこの地に祀られていましたが、第21代雄略天皇22年7月7日に天照大神の傍である伊勢の地に遷しました。
 飛鳥時代に、代々神職を務める海部氏は、祭神彦火明命が竹で編んだ籠に乗って海神の宮に行かれたという伝承に基づいて社名を「籠宮(このみや)」としました。これは浦島太郎の話にも似ています。

 
 
 
 
 
 
崇神天皇43年  伊豆加志本宮 いつかしのもとみや
 豊鍬入姫命は丹波から大和に帰ってきました。ここで8年間祀られていましたが、これは『日本書紀』には書かれていません。桜井市初瀬の與喜天満神社が比定されていますが、近くに長谷寺があり、この地も候補地となっています。
  
 
 
崇神天皇51年 奈久佐濱宮 なぐさのはまみや

 豊鍬入姫命は木々が生い茂る木乃国(紀国 和歌山県)に遷り、3年間祀りました。豊鍬入姫命の母は国造の荒河刀弁(あらかわとべ)の娘だったので、ここは母の故郷です。和歌山市に日前(ひのくま)神宮と國懸(くにかかす)神宮があり、日像鏡(ひがたのかがみ)と日矛鏡(ひぼこのかがみ)がご神体とされています。この鏡は銅製で天照大神の八咫鏡が造られる前に造られたと伝えられています。
 紀伊の国造は舎人の紀麻呂良(きのまろら)と御田を献上しました。
 

 
崇神天皇54年 名方濱宮 なかたのはまのみや

 4年間ここで祀りました。その間に吉備の国造が采女の吉備都比売(きびつひめ)と御田を献上しました。
 

吉備国の伝承地 

穴門山神社 岡山県高梁市川上町高山市1035   GoogleMap

 祭神は天照大神、倉稻魂神で足仲彦命、穴戸武姫命が合祀されています。
 崇神天皇54年に豊鋤入姫が天照大神を祀る地を求めて紀之国奈久佐浜宮から吉備の名方浜宮に来ました。ここで4年間神窟の中で奉斎していたと言われています。元伊勢「奈久佐浜宮」論社の一社です。
 
 
 
 
 
 
崇神天皇58年 御室嶺上宮 みむろのみねのかみのみや
 大和国に戻ってきた豊鋤入姫は2年間この地で祀りました。この時随分年を重ねていたことと思います。そのため「もう祀ることができない」と仰せられました。そして、この後は姪の倭姫命を御杖代として託すことにしました。その際「宮どころを求めて巡ることは大変なことだから心して行くように」と話されたそうです。
 
三輪山  奈良県桜井市三輪 GoogleMap
 山自体がご神体で大物主が鎮まる高さ467mの神の山です。御諸山(みもろやま)と称されることもありました。大神神社参道入り口の鳥居は遠くからでもはっきりと見えるほどの大きさです。
 
 

 
 

 

 垂仁天皇の時代、景行天皇の妹で日本武尊の叔母にあたる倭姫命は天照大神を祀る地を探して関西・東海地方各地を巡幸しました。
 

同行者

 次の従者たちが倭姫命に同行しました。
  十千根命(とおちねのみこと)
  大鹿嶋命(おおかしまのみこと)
  武渟川別命(たけぬなかわけのみこと)
  大宇祢奈(おおうねな)ー篠畑姫命 
  大荒命(おおあれのみこと)
  彦国葺命(ひこくにふくのみこと)
  武日命(たけひのみこと)ー大伴武日
  和泉姫
  高美姫
  佐伯毘古
  瑞穂毘古
  
 

倭姫命の巡幸地 

 大和国(奈良県宇陀市)→伊賀国(三重県名張市→伊賀市)→淡海国(滋賀県甲賀市→湖南市→甲賀市→滋賀県米原市)→美濃国(岐阜県瑞穂市→安八郡)から尾張国中島宮(愛知県一宮市→清州市)→野代宮(三重県桑名市)→忍山宮(三重県亀山市)→伊勢国各地(津市→松阪市→多気郡→伊勢市→度合郡→伊勢市)→五十鈴宮(現在の伊勢神宮外宮・内宮がある三重県伊勢市)

 

御室嶺上宮 みむろのみねのかみのみや
  ここで崇神天皇の皇女豊鋤入姫から垂仁天皇の皇女倭姫命への引継ぎが行われました。このとき倭姫命はまだ年若い少女であったと思われます。
 
 
崇神天皇60年 宇多秋宮 うたのあきのみや

 ここで4年間天照大神を祀りました。倭姫命の夢の中に天照大神が現れ「高天原にいた時に見た国に我を鎮座せよ」と諭されました。倭姫命は東に向かいました。「もし、この先に天照大神が気に入る場所があるのなら、まだ結婚していない乙女に会わせ給え」と願いました。すると、一人の乙女と出会いました。名を尋ねると「天見通命(あめのみとおしのみこと)の孫で宇太の大宇祢奈(おおうねな)」と答えました。倭姫命に仕えるように言うとすぐに「お仕えします」と言い同行することとなりました。倭姫命はこの乙女を神に仕える大物忌(おおものいみ)と定め、天の岩戸の鍵を預け、神鏡と神剣を護るように命じました。さらに弟の大荒命(おおあれのみこと)がやってきたので仕えさせることにしました。
 

阿紀神社 
奈良県宇陀市大宇陀大宇陀迫間252 GoogleMap
 天照皇大神、秋田比売神(あきひめのかみ)、邇邇杵命、八意思兼神(やごころおもいのかねのかみ)が祀られています。元伊勢伝承がもとになって創建された神社です。
 
 
 
 
 
佐佐波多宮 ささはたのみや
 宇陀市に篠畑(ささはた)神社があります。この神社の祭神は天照大神ですが、境内に大宇祢奈(おおうねな)を篠畑姫命として祀る社があります。大宇祢奈は倭姫命が五十鈴川に落ち着くまで仕えていました。
 
 
崇神天皇64年 市守宮 いちもりのみや
 伊賀国に遷った倭姫命は2年間天照大神をここで祀っていました。名張市には宇流冨志禰(うるふしね)神社があり境内の弁天岩は倭姫命の休息地であると伝えられています。
 
 
崇神天皇66年 穴穂宮 あなほのみや
  同じ伊賀国内の穴穂宮に木津川を下って遷つてきました。ここに4年間天照大神を祀りました。伊賀の国造が神田と神戸や鮎をとる淵、ヤナの瀬を献上しました。伊賀市に神戸(かんべ)神社があり、毎年干した鮎を伊勢神宮に献上しています。
 
 
垂仁天皇2年 敢都美恵宮 あえつみえのみや
都美恵(つみえ)神社 三重県伊賀市柘植町2280 GoogleMap
 もとは栲幡千々比賣命(たくはたちぢひめのみこと)を祀る穴石大明神でした。
 柘植川を上ってここで2年間天照大神を祀りました。ある日、武日命の前に白い衣の老人が現れ、倭姫命が巡幸されているとわかると龍神となって守ってくれました。そこで、雨龍(うりゅう)神社を建てて祀ったと言われています。
 
 
 
 
敢国神社
 三重県伊賀市一之宮877GoogleMap
 四道将軍の一人大彦命を祀る伊賀国の一宮です。倭姫命が天照大神を祀った敢都美恵宮の伝承があります。社伝では斉明天皇4年(658年)に創建されたことになっています。
 
 
 
 
 
 
垂仁天皇4年 甲可日雲宮 こうかひくものみや
 倭姫命はここで4年間天照大神を祀りました。その時、近江の国造が御田を献上しました。
 
田村神社 
滋賀県甲賀市土山町北土山469  GoogleMap
 征夷大将軍の坂上田村麻呂公を主祭神としています。倭姫命が天照大神を祀ったと伝えている一社です。
 
 
 
 
 
垂仁天皇8年 坂田宮 さかたのみや

 倭姫命は村人たちによって献上された船に乗って野洲川を下り、淡海の国に入りました。琵琶湖に至ると米原市に上陸しここで2年間祀りました。坂田の者たちが御田を献上しました。現在米原市には坂田宮比定地となっている坂田神明宮があります。 
 
 

 

 

垂仁天皇10年 伊久良河宮 いくらかわのみや

 ここで4年間天照大神を祀りました。 
 

美濃国の元伊勢

天神神社 御船代石 岐阜県瑞穂市居倉781 GoogleMap

 高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、天照大神、倭姫命が祀られています。倭姫命が天照大神を4年間祀った伊久良河宮跡と言われています。境内にはその古代祭祀跡があり、ここから神獣鏡が出土しています。禁足地の中には御船代石(みふねしろいし)と倭姫命の腰掛石が祀られています。後方には神明宮と倭姫宮が並んでいます。この神社の前には「富有柿発祥の地」と書かれた石碑がありました。

 
 
 
 
 
垂仁天皇14年 中島宮 なかじまのみや 

 ここで倭姫命は国を称えました。美濃の国造が舎人の市主(いちぬし)と御田を献上しました。また、船を一隻献上し、美濃の県主は鏑矢(かぶらや)と頑丈な船を二隻献上しました。采女の忍比売(おしひめ)も御田を献上しました。忍比売の子は御饌用の皿を80枚献上しました。
 
 

元伊勢」の宮は一地域一宮に対して複数の神社あり

 天照大神が祀られていた宮跡と伝えているところは各地に多くありますが、実際はどこにあったのかわかっていません。現在、それを特定することはできませんし、それがわかったとしても何か重要なことにつながるというようなこともありません。住んでいる地域に「元伊勢」伝承があれば、その地域の人たちにはそこが宮跡であり、他の同じ名の宮跡には関心がありません。それでいいのかもしれません。

 

尾張国「元伊勢」

 愛知県一宮市には木曽川を下ってきた倭姫命が天照大神を祀った「中嶋宮」伝承がある神社があり、他の宮跡と比べても多くの伝承地があって驚きます。「中嶋宮」は美濃国伊久良河宮で4年間祀った後、ここに遷り3か月間祀っていたと伝えられています。それぞれの神社ではどのように重要視しているのかが知りたくて全伝承地を訪ねてみました。なお、一宮市は尾張国ですが当時は美濃国の一部とされていたようです。
 

鉾塚神社 愛知県一宮市木曽川町門間沼西2 GoogleMap

 倭姫が持っていた鉾を突き立てたところで、鉾を納めた地とされています。

 
 
 

 

神明社 愛知県一宮市北方町中島宮浦 GoogleMap

 垂仁天皇の時代に天照大神を祭神として創建されたと言割れています。神名神社参道入り口(県道182号から分かれるところ)に「聖蹟日本武尊倭媛命」と書かれた立派な石柱があり、背面に「中嶋宮」の文字が書かれています。鳥居をくぐり参道を進むと神社があります。

 
 
 

 

坂手神社 愛知県一宮市佐千原宮東 GoogleMap

 明治時代まで毎年伊勢神宮の御厨(みくりや:伊勢神宮に供え物を送るところ)を賜っていたと言われています。地名の「佐千原」は「佐手原」が変わったとされています。境内には「大神御神石(おおかみごしんせき)」があり、御座(みしろ)として祀っています。

 
 
 

 

御厨塚 荷置塚之跡 愛知県一宮市佐千原北郷 GoogleMap

 坂手神社から南西の方位にある田の中にあります。大きいほうの石碑が、この地が伊勢神宮の御厨(みくりや)だったことを示し、小さいほうは倭姫命が荷を置いて休息したところと伝えています。

 
 
 

 

酒見神社 愛知県一宮市今伊勢町本神戸字宮山1476 GoogleMap

 倭姫命が垂仁天皇14年6月1日にこの地にやってきたので社を建てたと伝えられています。境内には「栄水(さかみ)の井」や清酒を醸造するときに使われた「酒槽石(さかふねいし)」があります。

 
 
 

 

中嶋宮 愛知県一宮市萩原町中島丸宮33 GoogleMap

 もとは八剣社で、神明社、白山社、天神社などが合祀されていました。昭和35年に現在名に変更されました。丸宮とも呼ばれています。ここが「中嶋宮」とする説は多くあり「中嶋宮」として『尾張名所図会』に描かれている社もここによく似ていると言われています。

 
 
 

 

貴船神明社 愛知県一宮市奥町貴船 GoogleMap

 祭神は天照大神です。創建年代など由緒については不詳とされています。

 
 
 
 

濱神明社 愛知県一宮市桜1丁目-16-9 GoogleMap

 真清田(ますみだ)神社の境外摂社となっています。倭姫命の滞在地あるいはここが中嶋宮の地と言われています。古代この辺りは浜辺であったようで、境内には船つなぎ松の跡とする石碑が立ち、またその隣には倭姫命が腰かけたとする石があります。

 
 
 

 

 

御園神明社 愛知県清須市一場734 GoogleMap

 愛知県一宮市萩原町にあった「中嶋宮」をここに遷座したと伝わっています。入り口に「伊勢神宮伝承地 中嶋宮」の碑が建っています。

 
 
 
 

 
 倭姫命の巡幸地は『倭姫命世紀』に詳しく紹介されています。これに基づきそれぞれ伝承地としています。しかし、それには書かれていない口碑のみで倭姫命が滞在したことを伝えている神社があります。
 

意外なところに元伊勢? 

浜名惣社神明宮 静岡県浜松市北区三ヶ日町三ヶ日(大輪山)122 GoogleMap

 浜名湖の奥、みかんで有名な三ヶ日町にあります。祭神は天照皇大御神、太田命(おおたのみこと)、天羽槌雄命(あめのはづちのおのみこと)、天棚機媛命(あめのたなばたひめのみこと)です。
 この神社は氏神の太田田根子命(「大田」の表記有 紀では大物主神の子 記は「意富多多泥古命」と表記)を祀る神社でした。平安時代の940年に伊勢神領となり天照大神を主祭神とする現在名の神社となりました。入り口の案内板には浜名県主(あがたぬし)が祖神の太田命を祀った神社としています。
 垂仁天皇時代に倭姫命が太田命の先道により船でここに至り、40日間行宮をおいたと伝えています。このあと伊勢国の度会(わたらい)に向かったことになっています。

 
 
 
 
 
摂社 太田社
 
 太田命が倭姫命を案内して五十鈴川辺に天照大神を祀ったことは、三重県伊勢市にある猿田彦神社にも伝わっています。太田命は猿田彦の子孫で、現在の伊勢神宮の地を守護していたと言われています。

 

垂仁天皇14年 桑名野代宮 くわなののしろのみや

 伊勢国に入り4年間天照大神を祀りました。
 桑名野代宮にいるとき、伊勢国の国造大若子命(おおわくこのみこと 別名 大幡主命:おおはたぬしのみこと)が参上し伊勢国の習いを話されました。また、国造の建日方命(たけひかたのみこと)に倭姫命が国名を尋ねると「神風の伊勢国」と答えました。ここから、伊尓方命(いにかたのみこと)と乙若子命(おとわくこのみこと)が舎人に加わりました。
 

伊勢国最初の元伊勢 

 日本武尊が東征を始めた頃の伊勢国は紀伊半島の伊勢湾側、現在の四日市市・亀山市~伊勢市一帯の広い範囲をさしていました。
 
 倭姫命が尾張国から伊勢国に入り最初に天照大神を祀ったのが野代宮です。桑名野代宮は当時の海岸線に近く、周辺には船出する港もあったと思われます。当時の船で熱田へ向かうルートは江戸時代の東海道も同じコースが制定されています。現在の熱田神宮は海岸線から随分離れていますが、古代は神社前に海が広がっていました。日本武尊の東征開始時、倭姫命の元伊勢は桑名野代宮がふさわしいとする説がありますが、倭姫命は垂仁天皇の時代に五十鈴川沿いに祀ったとしています。
 
 桑名野代宮も特定されていません。地元の言い伝えもあり「野代」という地名や「野志里(古くはのしろと読む)」という神社名から推測して桑名市の野志里神社が野代宮の最有力候補地とされているだけです。しかし、桑名市内には他にも候補地があります。
 

桑名の元伊勢 野代宮伝承地3社と休息地伝承地

野志里(のじり)神社 三重県桑名市多度町下野代3073 GoogleMap

 主祭神は天照大神で、他に建御雷神(たけみかづちのかみ)、天児屋根命(あめのみやねのみこと)、経津主神(ふつぬしのかみ)、姫神、大山咋神(おおやまくいのかみ)、速玉之男神(はやたまおのかみ)、事解之男神(ことさかおのみこと)、八衢比古神(やちまたひこのかみ)、八衢比売神(やちまたひめのかみ)、衝立久那戸神(つきたつくなとのかみ)、火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)、火之夜芸速男神(ひのやぎはやをのかみ)、火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)、品陀和気命(ほむだわけのみこと)、大山津見神(おおやまつみのかみ)、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、白山比売神(はくさんひめのかみ)が祀られています。垂仁天皇の御代の創始とされています。
 

 
 
 

 案内板にはここが天照大神を4年間祀った野代宮跡地であると書かれています。
「野志里神社は延喜式(九〇五年編さんの書物)に名を列ねる古社で、皇太神宮御遷座の旧跡です。
 『倭姫命世紀(やまとひめのみことのせいき)」という古典によると、垂仁天皇は、皇女倭姫命を御杖代(みつえしろ)と定められ、姫は天照大神(あまてらすおおみかみ)の御神霊と御神璽(ごしんじ)をお持ちになり、新たに清浄な御鎮座の土地を求めて、大和の笠縫邑(かさぬいのむら)を離れられた。この後、伊賀・近江・美濃・尾張などの各地を御巡幸、この伊勢国の野代の里に御遷幸されたと伝えられています。その旧跡がこの野志里神社だといわれていますが、その時代にはもう少し山寄りであったと考えられます。
 さて、ここにお祀りして四年、宇治の土公の祖(おや)、太田命(おおたのみこと)が地相を占い、「五十鈴の川上に霊地があります。御先導申し上げます。」と奏(そう)し、姫はこれを聞き入れ、現在の伊勢市宇治に御到着になり、ここに御神域と御神殿を整え、皇太神宮として奉祀(ほうし)することになりました。
 こののち、大鹿島命(おおかしまのみこと)が祭主となり、倭姫命は斎宮となられて、奉仕されるようになりした。」

 
 
 
境内地は道路で分断されています。

 

神館(こうだて)神社 三重県桑名市江場1441 GoogleMap

 祭神は天照皇大御神、豊受大神、倭姫命、大山祗神、火産靈神です。
 野代宮の候補地の一社ですが倭姫命の休息地あるいは館跡(神館)が建てられた跡で御厨神社ともされているようです。天照大神が五十鈴の宮に定まった後、この地にあった倭姫命の館跡に神明社として建てられたと言われています。

 
 
 

 

尾野神社 三重県桑名市東方2194 GoogleMap

 祭神は天神帯日子命(あめのおしたらしひこのみこと)です。野代宮の候補地の一社です。天神帯日子命は第5代孝昭天皇の皇子でこの地方開拓の祖神とされています。本殿裏山は「御霊様」とよばれている陵墓となっています。崇神天皇28年9月に創建されたとしています。境内に船繋ぎ松(船着き松)があり、もとは「船着大明神」でした。神社の境内地は少し高い位置にあり、この辺りまで海だったのかもしれません。船の出入りがあったことを示す遺跡と思われます。
 明治時代に立坂神社が合祀され、社殿が尾野神社社殿とつながって建てられています。

 
 
 
尾野神社と立坂神社社殿が
 
 
 
 
船繋ぎ松 と 神社裏山の檜 ここが陵と伝えられています
 
城南神社 三重県桑名市安永816  GoogleMap
 祭神は天照大御神、保食神、少彦名神、天目一箇命、大山津見命、火産霊神、豊受比売命です。
 倭姫命が伊勢に御巡幸されたときの休息地と伝わっています。平成26年に伊勢神宮遷宮に際、一の鳥居が御下賜となりここに建てられました。
 
 
 
元伊勢神宮の鳥居  天照大御神御遷幸旧跡碑  拝殿・本殿

 

 
奈具波志忍山宮 なぐわしのおしやまのみや
  川俣という地の県造の祖 大比古命が参上したので倭姫命が国名を尋ねると「鈴鹿国の忍山」と答えました。大比古命はここに社を建て天照大神を祀る用意ができていると申しました。そこに遷りました。

 鈴鹿国忍山宮の最有力候補地が亀山市野村の忍山神社ですが、他にも候補地がいくつかあります。ここは鈴鹿郡小山宮というよびかたもあります。

忍山神社(おしやまじんじゃ)
 三重県亀山市野村4丁目4−65 GoogleMap 
 猿田彦命を主祭とし、他に天照皇大神、天児屋根命、天布刃玉命、倭姫命、天照大御神荒御魂、大比古命、大若子命、乙若子命、天宇受売命、大山津見命、豊宇賀乃売命、木花佐久夜姫命、饒速日命、大水口宿禰穂積命、忍山宿禰、建速須佐之男命、大名牟遅命、伊邪那岐大神、伊邪那美大神、市杵島姫命、火産霊神、菅原道真公、保食神、伊香我子雄命を祀っています。
 この神社入り口の案内板に「皇大神宮遷幸地跡」及び「弟橘媛命生誕地」と書かれており、社伝ではここで弟橘媛が生まれたと伝わっています。
 垂仁天皇御代、倭姫命が御杖代となって御巡幸され天照大御神を大和の国から忍山に遷され、ここで半年間御鎮座されました。その跡に天照大神を奉斎する社を建てました。また景行天皇の時代に日本武尊は東征の際、忍山神社に立ち寄り、神主忍山宿禰の娘弟橘媛を妃としました。弟橘媛は日本武尊とともに東征に従い、走水の海で海神の怒りを鎮めるため入水しました。

 
 
 
 

 

愛宕神社・愛宕山    三重県亀山市若山町 

 亀山という地名は忍山神社が神山にあり、それが転じたものとも言われています。神山は現在の愛宕山のことで押田山とも呼ばれていました。押田山は忍山が転じたとも言われ、愛宕山が忍山神社の旧社地とされています。

 
 
 
 
布気皇館太神社(ふけこうたつだいじんじゃ) 三重県亀山市布気町1663   GoogleMap 

  この神社は亀山市布気町にありますが、もとは現在の忍山神社の地にあった社で、忍山神社の方が別地から合祀されていました。そのため、布気神社(白鬚神社)と忍山神社の2社が同居状態となっていました。しかし、いつの間にか神社名が忍山神社だけとなり、そのため、もともとあった布気神社が移転せざるを得なくなりました。そこで現在地に移転したということです。現在忍山神社がある亀山市野村は旧地名を「布気林」といっていたようです。

 
 現在の忍山神社の地に忍山宮があったのか、忍山神社の旧社地と言われているところにあったのか不明ですが、現在の忍山神社の場所が鈴鹿小山宮跡だったと推測しています。もともとそこは忍山神社ではなく布気神社があったところです。つまり、忍山宮の跡地に布気神社が建てられたのではないかということです。

 

阿野国

 倭姫命は忍山宮を出て南に進みました。阿野県主の祖となる真桑枝大命(まくはしおほのみこと)と出会い国名を尋ねると「草蔭(くさふか)阿野(あの)国」と答えました。真桑枝大命は神田と神戸を献上しました。
 詳細不明です。三重県津市に安濃(あのう)町があります。どこかに宮跡があるかもしれません。
 さらに進むと市師県主の祖の建呰古命(たけしこのみこと)に出会いました。国名を尋ねると「害行(あらひゆく)阿佐賀(あさか)国」と答えました。
 
 

 
 
 垂仁天皇18年 藤方片樋宮 ふじかたのかたひのみや
 倭姫命はこの宮に遷り4年間ここで天照大神を祀りました。
 三重県津市に加良比乃(からひの)神社があり、比定地となっています。
 この地にいるとき、阿佐加の峰に伊豆速布留神(いつはやふるのかみ)という名の荒々しい者がいて峰を行く人たちの多くを殺していました。倭姫命は大若子を都に送り天皇に知らせました。天皇はその峰に伊豆速布留神を祀る社を建て、和らげて鎮めるための儀式を行うよう仰せになりました。これで伊豆速布留神は鎮まり、倭姫命が「嬉しい」と喜んだことからその地を「嬉野(うれしの)」と名付けました。松阪市には大阿坂町と小阿坂町に阿射加(あざか)神社があり、それぞれに伊豆速布留神と猿田彦大神が祀られています。
 
 
垂仁天皇22年 飯野高宮 いいのたかみや
 倭姫命はここに遷り4年間天照大神を祀りました。
 倭姫命は飯高(いいたか)の県造の祖である乙加豆知命(おとかづちのみこと)に国名を問いました。乙加豆知命は「飯高」と答え、神田と神戸を献上しました。佐奈の県造の祖である弥志呂宿祢命(みしろすくねのみこと)に国名を問いました。弥志呂宿祢命は「草なびく志多備国(したびのくに)」と答え、神田と神戸を献上しました。倭姫命は大若子命に国名を問いました。大若子命は「百張る蘇我国で五百枝刺す竹田国(たけだのくに)」と答えました。倭姫命がその国に入ると櫛を落としてしまわれたので「櫛田(くしだ)」と名を付けました。櫛田川の河口まで船に乗って来た時魚が集まってきたので大変喜びました。
 松阪市の魚見神社境内には「行宮跡」と書かれた石碑があります。
 
佐佐牟江宮 ささむえのみや
 倭姫命はさらに進んで大若子命が「白鳥の真野国」と褒め称えた佐佐牟江(多気郡明和町)に至るとそこに宮を建て天照大神を祀りました。多気郡明和町大淀には竹佐々夫江(たけささぶえ)神社があります。「竹」は「多気」を「たけ」と呼んでいたことから「竹」という字に変わったと言われています。静かな海を進んできたので倭姫命は大変喜んでいたことが『倭姫命世紀』に書かれています。
 ここにいるとき天照大神から倭姫命にお告げがありました。「この神風の伊勢国は常世の波の重波帰(しきなみよ)する国です。傍国(かたくに)のうまし国です。ここに居たいと思います。(ここ伊勢は常世の国から幾重もの波が来るところで美しいところです。大和に近く海や山の幸が多いところです。ここに鎮座したい。)」と告げられました。
 
 
垂仁天皇25年 伊蘓宮 いそのみや
 倭姫命は大若子命にこの国の名を問いました。大若子命は「百船度会(ももふねわたらい)の国、多くの船が行きかう国で玉(小石)を拾う伊蘓の国」と答えました。ここに天照大神を祀りました。伊勢市磯町に天照大神を祀る磯神社があります。
 倭姫命は大若子に南の方にもつとよいところがありそうなので見てくるように言いました。同時に倭姫命も小舟に乗って川をさかのぼりました。船は流れに逆らって進むので進みが遅くなりました。「遅れてしまう」と言ったことから「宇久留(うくる)」という地名がつきました。
 
 速河彦が参上し、国の名は「狭田国(さたのくに)」(玉城町佐田)と言いました。
 次に高水神が参上し国の名は「坂手国(さかてのくに)」(玉城町田辺)と言いました。ここに坂手国生(さかてくにうみ)神社があります。
 多気郡多気町土羽に御船神社がありますが、これ以上船で進めないため倭姫命ここで船から降りました。この川は冷たかったので寒川(外城田川)と名付けました。
 さらに西に進むと急に雨が降り始めました。そこで笠をかぶったことから、この地は加佐伎(笠木)となりました。
 大川(宮川)の瀬に着くと鹿肉が流れてきたので渡りませんでした。相鹿瀬(おうがせ)と名付けられました。
 大川の上に進むと流れが速くなり渡れずに困っていると真奈胡神(まなこのかみ)が参上し浅瀬を案内しました。大紀町三瀬川の多岐原(たきはら)神社には真奈胡神が祀られています。
 
 
滝原宮 たきはらのみや

 浅瀬を渡ってさらに進むと美しいところに至りました。真奈胡神に国名を尋ねると「大河の滝原国」と言いました。そこで大宇祢奈に草を刈らせ宮を造ったところ「ここではない」と天照大神の諭(さとし)がありました。
 大紀町滝原に広大な宮地があり、瀧原宮(たきはらのみや)と瀧原竝宮(たきはらならびのみや)があります。宮川下流の伊蘓宮から上流に進んだところにあった滝原国に天照大神を祀りました。現在瀧原宮に天照大神の和魂(にぎみたま)、瀧原竝宮に荒魂(あらみたま)が祀られています。
 

 
 倭姫命は川に沿って宮どころを探し求めて進みました。美しい野に着きましたが少々困り果ててしまい、ここを和比野(和井野)と名付けました。さらに進むと久求都彦(くぐつひこ)が参上し、久求小野(くぐのおの)に社を建てました。
 久求都彦は倭姫命によい宮どころがあると申して案内しました。そこに園作神(そのつくりのかみ)が参上して御園地を献上しました。
 さらに進むと美しいのに至りました。ここを「目出野(めでの」)と名付けました。小山には「都不良(つぶら)」その先の沢道野に「沢道小野」と名付けました。
 ここに大若子命が迎えにやってきました。大若子命は「佐古久志呂宇遅(さこくしろうぢ)の五十鈴川上に良い宮どころがあります」と申されました。
 
 さらに進むと小浜がありました。ここで鷲取りの翁に出会いました。倭姫命は水が飲みたいと言うと翁は水を汲んできて奉りました。この地は鷲取小浜(鷲ケ浜)と名付けました。
 
 その後二見の浜に出て大若子命にこの国の名を尋ねました。大若子命は「再び見る二見国」と答えました。浜に船を止めると佐見都日女(さみつひめ)と出会いました。日女は固く固めた塩を奉りました。ここを御塩浜、御塩山と定めました。
 
二見ヶ浦 三重県伊勢市二見町江
 
 
 
 御塩浜から進み五十鈴川河口の入り江に入ると佐美川日子(さみつひこ)が参上したので倭姫命は国の名を尋ねました。佐美川日子は「五十鈴川の河口」と答えたので、ここに江社(えのやしろ:二見町の江神社)を定めました。また、荒崎姫が参上し、この国は「皇大神の前の荒崎」と申すと、それは皇大神の前を荒らすという畏れ多いことになるので「荒」は「神」と変え「神前(こうざき)」としました。
 さらに入り江の上に進み「御津浦」と名付け、小島に至り山の上を「大屋門(おおやと)」と名付けました。
 
 神渕河原に出ると苗草を頭に乗せた老女に会いました。名を尋ねると「宇遅都日女(うじつひめ)」と答えました。この二人の会話から「鹿乃見」(鹿海)と「止鹿乃淵(とがのふち)」の地名が付きました。
 
 
矢田宮 やたのみや
 不思議なことに矢田宮に比定される神社がありません。どこに矢田宮があったのかも石碑もなく不明です。
 
家田田上宮 いえたのたかみのみや
 この宮に遷ったとき、大若子命が天照大神の朝と夕の御饌を定めました。現在伊勢市楠部町に神宮の神田があります。また、この地には櫲樟尾(くすお)神社旧跡地があり、ここが家田田上宮跡と伝えています。
 
 
奈尾之根宮 なおしねのみや
 出雲神の子で吉雲建子(よしくもたけこのみこと)、伊勢都彦神(いせつひこのかみ)、櫛玉命(くしたまのみこと)、大歳神(おおとしのかみ)、桜大刀自命(さくらおおとしのみこと)、山神大山罪命(やまのかみおおやまつみのみこと)、朝熊水神(あさくまのみなとのかみ)らが五十鈴川の川尻の入り江で御馳走を奉りました。そこに猿田彦神の子孫の大田命(おおたのみこと)が参上して倭姫命と会いました。大田命に国名を尋ねると「佐古久志呂宇遅国(さこくしろうぢのくに)」と答えました。そして「佐古久志呂宇遅国の五十鈴川の川上は霊地で見たこともない霊妙なものがあり、こここそ天照大神が祀られるところでしょう。」と申されました。倭姫命はそれらのものを見るためすぐにそこに行きました。
 倭姫命がそこで見たのは、かつて天照大神が天上から伊勢国に投げおろした天逆太刀(あめのさかたち)、逆鉾(さかほこ)、金鈴でした。これを喜んだ倭姫命は天皇に申し上げることにしました。
 
  
垂仁天皇26年 五十鈴宮 いすずのみや

 倭姫命は  天照大神を渡会の五十鈴川の川上に遷しました。この時倭姫命は付きの者たちに次のように話しました。
 「五十鈴原の荒草や木の根を刈り掃い、大小の石を平らに敷きなさい。遠くのあるいは近くの山に立っている木を清めた斧で伐採し、木の中ほどを持ってきて清めた鋤で柱を立てて、天御柱と心御柱とし、神殿を建てて天照大神と荒魂宮(あらみたまのみや)、和魂宮(にぎみたまのみや)として鎮め祀りましょう」と仰せになりました。
 美船神と朝熊水神らは倭姫命を小舟に乗せて五十鈴川の川上に遷しました。船に乗っているとき、倭姫命の衣が川の水についてしまいました。この川は「御裳須曽河(みもすそがわ)」(御裳裾川)と名付けました。
 采女忍比売(うねめおしひめ)は平らな形の土器を80枚作り、天富命(あめとみのみこと)の孫に命じて神宝の鏡、大刀、小刀、楯鉾、弓箭、木綿などを作らせて神宝やお祓いの道具を準備させました。
 夜、倭姫命の夢の中に天照大神が現れ「私が高天原から見ていた宮どころはここです。ここに鎮まりたい。」と告げられました。
 倭姫命は夢のお告げを、安倍武渟川別命(あべのたけぬなかわけのみこと)、和珥彦国葺命(わにのひこくにふくのみこと)、中臣国摩大鹿嶋命(なかとみのくにまのおおかしまのみこと)、物部十千根命(もののべのとおちねのみこと)、大伴武日命(おおとものたけひのみこと)、渡会の大幡主命(おおはたぬしのみこと:大若子命)らに知らせました。大幡主命は大変喜び「神風の伊勢の国、百船渡会の県、佐古久志呂宇治の五十鈴の川上に鎮まり定まり坐す皇大神」と称えました。そして、宴を催し高天原の儀式のように舞ったり歌ったりしました。
 ここに倭姫命は
 「朝日が向かいくる国 夕日が向かう国 波の音が聞こえない国 風の音が聞こえない国 弓矢鞆の音が聞こえない国 打摩伎志売留国(うちまきしめるくに) 波が幾重にも寄せる良き国 神風の伊勢の国の百伝う渡会の県の佐古久志呂五十鈴の宮に鎮まりたまえ」と国を称えました。
 
 
 

伊勢神宮 内宮 三重県伊勢市宇治館町1 GoogleMap

 各地を回った倭姫命が最終的に落ち着いたのが現在の伊勢神宮のある地です。水清らかな五十鈴川が流れ、巨木が並ぶ神聖な場所です。(社殿の撮影は禁止されています)

 
 
 
伊勢神宮内宮
 
 

伊勢神宮  外宮 三重県伊勢市豊川町279 GoogleMap

 
 
 
 
 
 

倭姫宮 三重県伊勢市楠部町5 GoogleMap

 倭姫命を祀る神社はありませんでした。そこで倉田山公園内に大正12年に建てられました。近くには神宮徴古館があり神宮の宝物や歴史を知ることができます。

 
 
 
 
      倭姫命像(神宮徴古館)

 

伊勢の御贄処(みにえどころ)

 五十鈴川の宮に定めた後も倭姫命は落ち着くことがなく天照大神にお供えする物を調達する場所を探しました。

鎧崎  三重県鳥羽市国崎町  GoogleMap

 ここは良質なあわびの産地です。倭姫命は身に着けていた鎧をはずしたことから鎧崎と名付けられました。

 
 
 
 
 
 
 

 
 
 『続日本紀』の文武天皇2年(698年)12月29日には多気大神宮を渡会郡に遷したことが書かれています。多気大神宮という宮は存在しませんが、宮川上流の多気地区に倭姫命が祀った佐佐牟江宮(ささむえのみや)のことかもしれません。このように理解すると、この時伊勢神宮はまだ五十鈴川川上には祀られてはいないことになります。現在の度会郡大宮町にある瀧原宮あるいは五十鈴川沿いの現在地に遷ったことを書いているとする説があります。